昭和4年の地図帳

 たぶん、もう20年ほども前になる。叔父が、仕事の帰りにゴミ焼却場の近くを通ったときに見つけた、といって、古い地図帳をくれた。
 尋常小学校の生徒用の地図帳。昭和4年の発行。トシ子ちゃんという女の子が5年生と6年生のときに使っていたものらしい。水に濡れたりもしたんだろうか。触れると、指の先から壊れていきそうなほど、ぼろぼろだ。
 昭和4年というと、私の死んだ母が生まれた年。オードリー・ヘプバーンや、アンネ・フランクが生まれた年。地図帳の持ち主だったトシ子ちゃんはもうひとまわり年上だったのだろう。そして、きっともう亡くなっているのだろう。
 日本の輸出品目の一位は生糸。そして、台湾も朝鮮半島も、南樺太も赤い。日本だったのである。
 
 この地図帳、10年ほど前に人に貸した。母より数年あとに生まれた張さんという在日韓国人女性に。学生のころ、被爆体験を聞かせてもらって以来の知り合いで、張のお母さんと呼んでいた。張のお母さん、50歳を過ぎて夜間中学、夜間高校と学び、大学に社会人入学した。その後、高校の教員になった。たぶんその頃に、この地図帳を見せる機会があったのだ。お母さんが生まれた頃の地図張でしょう、と言って。すると「貸してちょうだい」と言われたのだった。「生徒たちに見せるから」。
 
 それっきり地図帳のことは忘れていたのだが、最近になって、ふと思い出し、そういえばあの地図帳はどこにいったろう、と探していて、ああ、お母さんに貸したのだ、と思い出した。今度会ったら聞いてみよう、と思った数日後だった、張のお母さんが交通事故で急死した、と知らされた。今年の2月。
 
 地図帳のこと、どこかの高校にあげてしまったかもしれないし、でももしも残っていれば、と思って、娘さんに手紙を書いたら、遺品のなかにあったようで、送ってくださった。ああそう、この地図帳だ。見ていると、なんだかいろんなことを思い出して、胸がいっぱいになった。幾重にも思い出のある品になった。