骨がなくても

 たぶん78歳ぐらい、古い知り合いのおばさんは、冬、寝たきりになっていた。左足の付け根の部分の骨がもうなくなっていて、もう立ったり歩いたりできないし、車椅子も危ない、といわれていた。施設をさがそうかという話もあったが、やはり80歳ぐらいのおじさんが、家で世話をすると連れて帰った。老老介護である。
 おばさん、これまでも死ぬかもしれない病気を何度もしてきて、今度だって、娘たちももう覚悟していたぐらいだったのに、本人はいたって気丈、医者に「先生、私は100歳まで生きるんですから、よろしくお願いします」と言ったというのだった。
 3月はまだ寝ていた。車椅子で、デイケアに行くのが可能かどうか、ヘルパーさんと相談していた。4月はベッドに体を起こしていて、車椅子で、お花見に行ってきたんだと言っていた。そのときも回復のめざましいのに驚いたんだけれど、3日前に行ったら、立っている。杖で立って、家のなかを歩いている。度肝を抜かれた。「今日ははじめて歩いて外に出た」とうれしそうに言う。「骨は?」「ないわよ。レントゲンにもなんにもうつんない」。おばさん、骨がないのに歩いている。痛くもないんだそうである。医者も驚いたらしい。「今度、お墓参りに連れていってよ」と言う。おばさん、遠出もするつもりである。
 この近所の、やはり70代のおばさんも、骨がなくて歩いている、という。両足の付け根の骨がなくなって、7、8年前は歩けなかったそうだが、今はこのひどい坂道を歩いて買い物にも行ったりしていて、とてもそんなふうに見えない。「骨がなくて歩けるんですか」と驚く人に、「根性よ」と笑って答えたそうである。
 
 そういうこともあるんだ。あっぱれ、という言葉を思った。あっぱれな生老病死との闘いかただ。とても、あっぱれだ。