消える靴

 小学校1年生か2年生のころ、学校から帰ろうと、げた箱に行くと、靴が消えている、ということがときどきあった。
 靴がなくては帰れないので、いっしょうけんめいに探す。やがて靴は、違うクラスのげた箱とか、外の植え込みのなかとか、ごみ箱から、出てきて、靴がないまま帰らなければならないということはなかったけれど、靴が消えていることに気づいたときの絶望感みたいなものは、今も思い出せる。
 ああ、またか、と思うのだが、なぜ靴が消えるのか、を考えたことはなかったと、最近気づいた。
 靴が消えた、ということは、誰かに隠されたのだし、それは誰かにいじわるされているということだと、今の私は思うが、子どもの私は、そんなことはまったく思いもせずにいた。
 あのとき、私が感じていたのは、靴というものはときどき消えることがあるらしく、私がぼんやりしていなければ、消えるのを防ぐこともできるかもしれないのだが、ぼんやりしているつもりはないんだけれど、でもたぶん私がぼんやりしていたせいで、気づかないうちにまた、靴が消えてしまったのだ、という泣きたいような気持ちである。靴が消える世界と靴が消えない世界がふたつあって、なぜかわからないけれど、私は靴が消える世界のほうに、ときどきはいってしまっていて、それは自分の過失のように感じられた。
 むろん自分の過失だから、言っても叱られるだけだと思うから、ときどき靴が消えることは、母にも先生にも言わずにいた。
 あのとき、ほんとうは何が起こっていたのだろう。
 いじわるされたのだとしたら、だれがどんな理由でいじわるしたのだろう。
 でも、あのときのクラスメイトの名前を、私はただのひとりも思い出せない。
 ドッチボールのとき、私の目の前にやってきては「うすのろ」とか「はんばか」とかいった女の子は同じクラスだったろうか、隣のクラスだったろうか。食べ残した給食を、私の机のなかに捨てていた男の子はだれだっけ。そういうことをするってひどい、と気がついたのも、ずっとあと、大人になってからで、そのときは、ぼんやり見ていただけだった。
 靴が消えていたことは、そういったことに関係があるんだろうか、ないんだろうか。
 消えた靴を探して、裸足で校庭を歩いていた記憶だけあって、その前後のことがなんにもわからない。
 不思議な感じだ。
 あのとき、ほんとうは何が起こっていたのだろう。