おおかみはおでかけ

 子どもがかんしゃくを起こして叫んだり、してはいけないと言っていることを、わざとのように何度も繰り返したりするとき、「おおかみになった」と言う。
 「おおかみは、きみのここにいるんだよ」と子どもの胸を指すと、わかっているのかいないのか、胸のあたりをのぞいて、服までめくって、「おおかみいないの」と言う。
 「いいや、おおかみはいるよ、ほら」と子どもの胸をさわって言うと、自分の胸におおかみがいるという考えは、彼にとって、とてもつらいものらしく、「おおかみ、いないの、おおかみ、みえない」とほとんど泣きそうである。
 「いいや、見えなくても、ここに、おおかみはいるんだよ」とさらに言うと、子ども、「おおかみは、おでかけなの」と言ったのがおかしかった。
 
 おおかみはいるんだろうか、いないんだろうか。
 してはいけないと言われていることを、わざと繰り返すのは、なんだか自分にもおぼえがあって、悪意だったり、いじわるしようと思っているのではないのだ。
 叱られることとかまってもらうこととは似ていて、いたずら、わるさ、いうこときかなさ、と見えるものも、きみのつもりでは、もっと遊びたい呼びかけだったり、ユーモアだったりするかもしれない。
 そう思うと、「おおかみがいる」と叱っている私たちが、もしかしたら間違っているのかもしれないが、きみが理解しなければいけないことは、そんなふうなきみの呼びかけやユーモアは、たいてい通用しない、ということなんだよ。
 
 きみが、きりんさんの服を着ていても、その服の後ろにおおかみはひそんでいるかもしれない。
 でも「おおかみは、おでかけなの」ときみが言うとき、きっと、おおかみはほんとうにおでかけするんだろうね。