水泳パンツに靴下

 月曜日は3週間ぶり、療育センターのクラスだった。天気がいいのでプール。 
 子ども、みんなと一緒にプールに入って楽しく遊べてよかったんだけど、想像力の問題なのかな、扉の向こうには、プールが準備されているのに、扉のこちら側で裸になって着替える、ということに、すごく抵抗する。
 水泳パンツはすいすいはけたのだが、シャツを脱ぐこと、靴下を脱ぐことがどうしてもいや。 それで、水泳パンツにシャツに靴下という奇妙な格好でプールまで行くと、たちまち濡れるわけで、濡れるとようやく「ぬぐの」と言って脱いだ。
 保育士さんたち、「自分で脱いだよ」と喜んでくれたけれど、これはプールへの意欲というよりは、少しでも濡れたものを着ているのがきらいという性向によると思う。
 
 で、水泳パンツに靴下という奇妙な格好で、扉が開くまでの時間、教室を走り回っていた子どもの姿が、なんだか自分を見ているようで、たまんないのだった。
 このままプールへ行ったら濡れるだろう、という想像力が、たぶん働いていないのかもしれないんだが、たとえ、服や靴下が濡れるだろうと想像できたとしても、靴下を脱ぎたくないこだわりを取り去るには、濡れるだろう、という想像程度では無理で、実際に濡れてしまわなければならないのだ。
 濡れてしまわなければ納得できないし、納得できなければ、なんにもできない。
 
 みんながこうするから、などという理由で、行動することはもとより不可能で、この先何が起きるかということに対して、想像力が働かないとくれば、ちびさん、きみは苦労する。
 普通に想像力が働けば回避できる危険なのに、なぜ回避できなかったかという、くやしさは、私だってたくさんあるんだが、普通に想像力が働けば、きっとしなかったことを、してしまったおかげで、すこし人生は素敵になった、とも思うから、水泳パンツに靴下のきみも、たぶんそのまま、走り続けてしまうと思うけれど、シャツと靴下さえ脱げば、なんでもないことなのに、そのなんでもないことが死ぬほど難しくて、けれどもそんなことは誰にも理解されなくて、自分で自分をどうしようもなくて苦しかったりすることもあるかと思うけれど、ほんとうは靴下は、濡れてから脱いだって、間に合うんです。
 
 その間にきみを笑っていなくなる友だちは、もとより君に不要な友だちだから、身辺整理ができてラッキーだと、それくらいに思えるほどには、心の強い人になってくださいね。