他人の身になって

 『ぼくには数字が風景に見える』ダニエル・タメット著 古屋美登里訳 講談社
サヴァン症候群アスペルガー症候群の青年の手記。義父母の家にあったので、借りてきて読んだ。面白かった。数字が風景に見えるという共感覚の天才的な働きは、ただ感嘆しながら読むしかないが、基本的なものの感じ方は共感できるところも多い。
 
 本の最後のほうの次のくだりは大事だ。
 「自閉症のために、ぼくは、ある状況におかれたほかの人がどのように考え、どのように感じるのか理解できないときがある。そのためぼくの道徳観の基礎になっているのは、「他人の身になって考える」やりかたではなく、ぼくにとって道理にかなっている論理的な考えかただ。ぼくが思いやりと敬意を持って人に接するのは、そのひとりひとりがかけがえのない存在であり、人が神の姿に似せてつくられていることを信じているからだ」
 
 「他人の身になって考えなさい」とは、小さい頃よく言われたことだった。それがどういうことかわからず、とても困った。私が感じると同じことを人が感じるとはかぎらず、その人が何を感じるかは、その人自身にしかわからないことと思うのに、それを考えるって、どう考えるのかさっぱりわからない。
 
 それで私が考えたのは、相手がするのと同じことをする、ということだった。人は、自分がしてほしいと思っていると同じことを、相手に対してしているのだろうと思ったのだ。でもそれは、大きな勘違いで、ひどい目にあうことになる。それは本当にひどい目にあう。みんな自分はろくでもなくても、相手に対しては、立派なふるまいを期待するものなのである。それがわからなくて、私はとても困った。「自分がしたと同じことをされているだけなのに、どうしてこの人は私を憎むのだろう」と思ったものだった。
 考えてみれば、バイキンマンの真似をしてれば、自分の精神だってぼろぼろになる。そんなにしてまで、他人を理解する必要はないということを、私は誰かに教えてもらいたかったわ。(最近ちびさんが、バイキンマンの真似をするので、もらったアンパンマン絵本はすべて捨てることに決めた)
 
 他人の身になって考える、なんてできません。叩かれたら痛い、とか、せいぜいそれくらいわかれば十分だと思うのよね。他人の感情──憎悪とか嫉妬とか、ろくでもないものもいっぱいつまってる──をいちいち忖度していたら、こちらの精神が壊れてしまう。人として、していいふるまいかどうかという善悪のところだけ、はずさなければいいと思う。哲学というのはそういうことだと思うけれど、きっと、この国の社会に欠けているものだ。
 
 他人の身になって考える、なんてことは、それができる人たちはすればいいけれど、できない人たちは、ダニエルのような生き方が正しいと思う。ほんとうは、自閉症でない人たちだって、そのようにあるのが、普遍的に正しいあり方だと思う。
 世の中には、「その人の身になって考えてもらったことのない人たち」がたくさんいて、その人たちが望んでいるのだって、自分の感情を理解してもらうというようなことではなくて、人間として尊重される、当然の敬意をもって接してもらう、ということだと思うのだ。