ふきげんな子ども

 『白州正子自伝』(新潮文庫)を読んでいる。面白い。たとえば次のようなくだりがもうたまんない。
 
 「(略)要するに、近頃のはやり言葉であるアイデンティティを求めて、私は長い間さまよっていたのである。そのうちアイデンティティなんかもうどうでもよくなって、そんなものは他人に任せて何とか生きている次第だが(略)」
 
 あるいは幼稚園のころの話。
 「砂場の隅っこの方で土ばかり掘っており」
 幼稚園のころのこと、私もまず思い出すのは、校庭の土の色。
 
 それから15歳くらいでアメリカに留学するときのくだり。
 「一つには自分自身からも逃げ出したい気持でいっぱいだった。」
 高校卒業後の進路を決めるとき、とにかく瀬戸内海だけは渡ってしまおう、海の向こうへ行こうと思ったことなど思い出した。当時は橋はまだかかってなかった。そうそう、自分から、逃げたかったのだ。
 
 自伝でありながら、「自分のことは思い出すのもいやである」と幾度も書いているのが面白いが、私の母が晩年、といっても52歳になってすぐに死んだから、50歳ぐらいの頃だろうか、自分の6歳くらいのときの写真を見て、なんてきつい顔をした子どもだろう、いやだいやだ、と心底いやそうに言っていたのを、思い出したりした。ただのふきげんな子どもの顔にすぎなかったけれど。
 
 本の表紙の写真、勲章付きの礼服姿の祖父に抱かれた正子(幼稚園のころらしい)も、ものすごくふきげんな顔をしている。一度見たら忘れられない写真だ。