昨夜の「クローズアップ現代」

昨夜の「クローズアップ現代」。知的障害者の雇用についてやっていた。知的障害のある青年たちが、パソコン入力で健常者より高い能力を示したり、老人介護の現場で、誰より慕われていたり、その能力を発揮している姿が、見ていて嬉しかった。
発達障害の青年は、うちのちびさんが大きくなったらあんな感じかもしれない、と思った。記憶力は抜群にいいのである。でも社会性は問題ありそう。学校教育に対応できるかどうかも、かなり不安。

健常者よりも知的障害者のほうが仕事が早い、という場面はよくわかる。単純作業をひたすらこなしていくのが快感なのだ。あれが健常者だと、こんな仕事、だるい、とか言い出して、途中でお茶のんだり、無駄話したりするから、のろいのである。

そんなに急がなくていいよ、と声をかけられたことがあった。昔、大学の臨時職員なんかしていたときに。ところが、言われるままにゆっくりしていると、雑音が聞こえてくるんである。それは、たいていその場にいない同僚や上司の悪口だったが、単純作業に没頭する快感を奪われたうえに、つまんない雑音で頭のなかを汚されるので、そのうち体がおかしくなってきた。朝起きると絶望感がこみあげてくる。いやな汗が出る。それでも1年か、もうすこしは働いたのかな、でもだんだん行けない日が多くなり、やめたときには、明日からどうするのか見当もつかなかったけど、草が緑で空が青くて、久しぶりに世界をきれいだと思った。

弟が、小学校の低学年のころ、夕方、母が弟に勉強を教えながら、どうしてこんなことがわからないのか、どれだけ言ったらわかるのかと、情けながって泣いていたのを、思い出したりした。母はせつなかっただろう。言語学級に通い、それから特殊学級に通っていたが、障害への理解が、まわりにあったとは思えない。軽度、というのは、かえってつらいのだ、なんだかいつも叱られていた。母が死んだのは、たぶん、弟にとっていちばんかわいそうだった。16歳だったが、あれから彼は、帰るところがない。
人なつこい、やさしい子だったが、たぶん、健常者なら、人生への呪いの言葉も吐くにちがいないような、さんざんな人生を、苦労を苦労とも言わず、愚痴もこぼさず、かわらない人なつこさで、生きているのは、ほんとうにたいしたことだと思う。もう両耳とも聞こえない。工事現場の騒音で聴力をなくしてしまったのだ。

私は癇癪のひどい子どもだったし、思い通りにならないと気がすまない子どもだったし、(ちびさん見てると、そのあたり自分に似ていて、ため息でるけど)、だから、きょうだい喧嘩は、近所で評判になるほどすごかった。弟相手に噛みついたり引っ掻いたりしていたのだ。あの日々、私の癇癪を弟が受け止めてくれたことで、私はなんとか自分をたもっていられたのかもしれないのだと、今頃気づいたりしている。
気づけてよかった。とはいえ、弟に何もしてあげられないんだけど。