街の歩きかた

昨日の療育センター、やっぱり泣く。「ママ、にげるんだよう」
入口のごみ箱の横のカーテンに一緒に隠れると少し落ち着いたが、母子分離の時間がくると、鳴き声がもう悲鳴のようだった。それでも実際に母がいなくなってしまうと、意外にけろっと遊んでいた。ホットケーキつくったの二枚半も食べたし。

午後、郵便局と銀行に行く。パアララン・パンタオへ送金。送るお金があるのが、しみじみありがたい。
それから文具など買いに行く。

私が、街を歩く様子があぶなっかしい、とパパが言う。それが子連れなわけだから、あぶなくて、もう見ていられないほどだ、という。よそみしながら歩くから、すぐ転ぶ子なんだが、エスカレーターのところで転びそうになったときには、パパついに切れて、怒ったり涙ぐんだりしていた。
たぶん、私が悪いんだが、まわりを全然見てないとか、考えずに歩いてるからだ、とか言われても、わからないので困る。私としては、精一杯歩いているんである。

そういえば。
夜になって思い出した。
学生のころだ、夜中に国道の中央分離帯を歩いていた。たまたまそこを、先輩がバイクで通って、私を見て仰天したというのだ。先輩がそのことを私に言ったので、私は自分が中央分離帯を歩いていたと記憶が残っているんだが、先輩に言われるまで、中央分離帯を歩いてはいけないとは知らなかった。
さらに思い出した。
高校のとき、土曜の夕方、国道を歩いていたら、向こうから、担任の車がやってきて、一瞬目があった。月曜日、学校に行ったら、あんなによそみしながら歩いていたら、車にひかれますよ、と言われた。
さらに思い出した。
中学校のとき、学校の行き帰りの道を、本を読みながら歩いていた。
さらに思い出した。
小学校のとき、セロテープを目に貼ると、世界がぼやけて見えるのが面白く、セロテープを目に貼ったまま、学校からの帰り道を歩いた。
さらに思い出した。
学生のころ、バイトの帰り道で、自転車をこいでいたのだが、眠くて眠くて、居眠り運転していた。電信柱にぶつかったり転んだりしながら、あれは、よく生きて下宿までたどりつけた。

東京は自動改札がこわかった(東京からもどってきたら広島も自動改札になっていた)。目の前でそれがふさがって、とおせんぼされる。それでなぜ通れないのか、にわかに理解できない。
電車の混雑、街の雑踏のしんどさはいうまでもなく、一日電車に乗って都内に出ると、そのあと二日寝込む、というような頃もあった。

そういえば。田舎にいた子どもの頃からだ。デパートやスーパーの雑踏がきらい。買い物でレジに並ぶのも(いまはさすがに慣れたけど)苦痛だったから、あのころ、横浜生まれの隣のおばさんが、「くさくさしたときはデパートに行くといい気晴らしになるわ。何も買えなくても、見ているだけで楽しいのよ」というのを、信じられない思いで聞いたものだ。今も信じられない。

ああ、街の歩きかたは難しい。