感情生活

療育センターに提出の、書類。かれこれ7ページもある。

まず、子どもの生活のスキルとかについて。着替えとか食事とか排泄とか。どの項目も×ばっかり並ぶので、記入しながら落ち込んできたわ。省略。

次いで、コミュニケーション、パニック、感覚、遊び、についての項目。大人との関係、子どもとの関係それぞれについて、好きな人、苦手な人について、書きわけるようになっているので、まわりの人たちについての、好き嫌いの感情を、聞いてみた。誰が好きで誰が苦手か、聞いてみないとわかんないし。

「ママはすき」と、これはためらいなく。しかり飛ばされたあとにも関わらず。
パパは?「パパは、ちがう」
違う? 好きじゃないの?
「パパとレールであそぶのはすき」
おじいちゃんは?
「おじいちゃんは、しんかんせんかってくれた」
好き?「すきじゃない」(これはおじいちゃんに言えないね)
好きじゃないの?(片手で目を隠して)「みえませんねえ」
おともだちは、好き?「きらい」
きらい? ○○くんは? △△ちゃんは?(具体的にきいてみると)
「○○くんとはいっしょにマックにいったの」「△△ちゃんはチョコレートくれたの」と、事実の把握は正確。
好き?「ちがう。すきじゃない」
好きじゃないの?「みえませんねえ。わかりませんねえ」

つまり、ママに対する感情だけは、好き、とはっきりしているのだが、そのほかの人については、パパが限定的に好き、であって、あとは、好きとも嫌いともわからないということらしい。ただ、ママに対して「好き」を使うと、他の人に対しては「好き」を使えないという意思は、はっきりしていて、かたくななほどだった。

苦手か苦手でないか、を問うなら、たいていの他人は、苦手だろうなあ。

アスペルガー、感情の把握、というような語で検索すると、たちまち次のような文章に出あう。何かの本からの引用らしい。

「私は自分の感情がはっきりわからない。理解もできなければ、表現もなかなかできない。だからいつも、まわりの人たちに誤解されているという思い、なじめないという思いを味わってきた。(中略)
私はただ、まわりの世界がなかなか把握できないでいるだけなのだ。」
        (私の障害、私の個性。 ウェンディ・ローソン)

そうそう、そうなのだ。人に対する好き、とか、嫌い、とか、感情的なやりとりを求められる場面では、ずいぶん途方にくれた。どんなに途方にくれたか、なんていうことは、理解されないことと、さすがにそれくらいはもうわかるので、言わないが。

以前はわからなかったが(今もよくわからないが)世界はずいぶん感情的なやりとりで成り立っていて、つまり、まあね、そこに参加しようとしては(あるいは無理やり参加させられては)、ドツボにはまる、というふうだったのだ。あのぐちゃぐちゃの愛憎は、地獄だ。ひとは、ほんとうにおそろしいところで生きている。

もしかしたら、とてもふざけた答え方に見えるかもしれない、「みえませんねえ」というきみの答えは、とても正しい表現だと思う。
「みえませんねえ、わかりませんねえ」と心のことを、そんなにしっかり言葉に出して言えることに、私は驚嘆するんだが。

ただ、正確な表現が、好まれる世界ではないということを、いつかきみも知っていかなければならないだろうと、思えば切ない。

「わからない」という言葉は、憎まれる。好き嫌いの感情がわからないはずがないと思っている人たちで成り立っている世界では。

好きって、言っておくのよ。好きって。
でも、好き、を利用されそうになったら、嫌いって、言いなさい。

難しいだろうなあ。
私も難しいわ。