パンダ

パンダが芸をしている写真も出てきた。サーカスみたのだ、そういえば。1985年3月、上海で。過去、と、夢、とはどう違うのだろうと、写真見ながら考えてしまった。それが現実の過去の出来事であったか、夢であったか、歳月がすぎれば同じことのようじゃないかしら。

パンダ。この写真よりずっとずっと前、日中国交回復のころ、パンダのぬいぐるみが欲しかった。近所の女の子がもっていて、それで私も言ってみたのだ。パンダのぬいぐるみが欲しいの。すると母が買ってくれて、私は、パンダのぬいぐるみが欲しいなんて言ったことを、ものすごく後悔した。買ってもらえると思っていないから、言ったことだったのに。
家にお金はないのにぬいぐるみなんか買わせたこと、しかも、ほしいと思ったのよりすこし高価で(手足がくるくるまわる装置までついていて)、私はなんだか打ちのめされたのだった。思い出すといまも胸が痛いんだが、ララちゃんという名前つけたんだっけか。

蘇州では、ホテルに画家さんがやってきて、寥宇先生といいました、なんでも日中友好協会の人が40人日本から来るときいて、1週間寝ずに、ひとりひとりに1枚ずつ違う絵をお土産に描いたのだと持ってきた。そんな誤解が起きたのは、引率の小林先生が中国に人脈の深い人だったからだけれども、引率されてきたのは、安くて中国旅行できる、というので、とびついただけのいい加減な学生たちだったんだよ。
かわいそうに、寥宇先生。
その寥宇先生にもらった絵、保存状態が非常に悪い。パネルにしてたんだけど(それも問題ありだとあとでわかったけど)雨漏りのしみやら、引っ越しのときに破けたとか、くすんで汚れて、もうぼろぼろで、これも胸が痛いんだが、でも死ぬまで、部屋のどこかに飾っておくつもりです。

寥宇先生、私がスケッチブックに描いていた絵を見て、「デッサンがしっかりしていて、繊細です」って言ってくれたんだよん。あのころ、カメラがないので、スケッチブックと色鉛筆をもっていってたのだ。私のいいかげんな落書きを寥宇先生が、とても真面目に見ているのにビビったというか、こんなに純粋な大人がいるんだと思って、胸打たれた。

おかげで、帰りの列車では、一緒に行った人たちの似顔絵をせっせとかくはめになったなあ。下手なのに。