偏向?

庭の椿が咲いた。沈丁花もいいにおいをさせている。根もとから切られて枯れているのかと思っていた紅梅も、復活して、花を咲かせている。
と思っていたら、桜も咲くらしい。山を降りると、もうずいぶん咲いている。向いの森の桜も昨日、ようやくほころびはじめた。0.3分咲きくらい。

昨日書いたNHKスペシャルの世界遺産アウシュビッツと広島、の番組について、次のようなことを聞いた。朝鮮人被爆者をとりあげたことで、内容が偏向しているという攻撃意見が多数寄せられて、再放送の予定が立たないというのだ。
もう、信じられない。あれは本当にいい内容だったのに。
久しぶりに、私は怒りで血が逆流しそうになった。
広島の平和運動において、広島が原爆でこんなひどい目にあったといっても、世界には伝わらない、というジレンマはずっとあったと思う。
けれども原爆の悲惨は、伝えなければならないことであり、そのためには、広島にいる私たちが、広島以外の戦争被害についても、外国人被爆者のことについても、さらに軍都であった広島の戦争責任についても知っていかなければ、ということが、80年代頃からの、平和運動の流れのなかに出てきたと思う。
たぶんその流れのなかで、私が関わった、在日韓国人被爆者の被爆体験の聞き書き、ということもあったのだ。
それから被爆者や、さまざまな人たちの葛藤や取り組みがあって、原爆資料館の展示内容も、被爆の惨状を訴えるだけでなく、戦争の歴史のなかで広島の果たした負の役割も見つめるものになったし、市長の平和宣言も、アジアへの戦争責任を顧みる内容になっていった。
ヒバクシャは広島長崎だけではない、ということは、今では、チェルノブィリを思い出すまでもないことだけれど、それ以前に、広島長崎の体験の普遍化の一歩は、隣国の被爆者の存在に気づくことだったのだ。
その意味で、番組のなかで、陜川(ハプチョン)の被爆者がとりあげられたことは、本当に大事なことだと思う。
まったく何が偏向なのだろう!そういう人たちは被爆体験を何十回も聞いてからにしてほしい。日本がアジアの人たちに何をしたかを思って、涙を流す被爆者もいるのに。その人たちに対してだって、とても失礼な話だ。

番組の最後で、陜川(ハプチョン)から、被爆者のお婆さんと孫娘が広島を訪れた。孫娘が「家族が大事だ、見知らぬ隣人も家族のように思うべきだ」と語ったのを聞いて、お婆さんが「伝わってうれしい、私は幸せ者だ」と語ったのが忘れられない。
陜川(ハプチョン)。あの町の人に、昔、私は、家族のように迎え入れてもらった。母が死んでいるといったら、「アイゴー」と泣いてくれた人がいたのだ。なつかしくてありがたくて泣きます。
そのような心をつないでいくことのほかに、平和なんてないと思うよね。