記憶の遺産

再放送あります。

BS2です。

4月6日(日)午前10:00~11:18

あなたのアンコール サンデー
探検ロマン世界遺産スペシャル「記憶の遺産 アウシュビッツヒロシマからのメッセージ」

ぜひ見てください。陜川(ハプチョン)のやさしいお婆さんを見てほしい。二十歳の頃の私に、人間は信頼するに値するし、人生は生きるに値することを教えてくれたのは、あの韓国人被爆者のお婆さん(そのころはお母さん)たちでした。深く感謝しています。


映画「靖国」の上映中止のいきさつなどを、今頃知る。
観たい映画はなかなかここまで来ないし、来ても、子ども連れて行けないし、子ども置いても行けないし、結局行けないので、関心ももたなくなっていたんだが。これも「偏向」している作品なのらしい。
見ていないので、偏向しているのかしていないのかの判断はできないが、それ以前に、この国の人たちの「靖国」への執着がいったいなんなのか、私は全然、理解できないでいる。

「戦争は負けたら駄目です。負けたらみじめです」と、陜川(ハプチョン)の原爆診療所の院長先生が言ったのを、忘れられないでいるが、そんな話をしていたら、昨日パパはこう言った。「戦争に負けた以上は、靖国の英霊たちは売国奴だ」。
ああそうか。ああそうだ。私はとっても納得した。

結果論だから。戦争を起こす以上は、勝って国を豊かにして人々を幸福にすれば英雄だが、負けて国を他国に奪われるようなことになったら、それは売国奴だ。とても明快だ。
とすると、売国奴を英霊と言っているわけで、それは、ものすごい欺瞞ではないだろうか。その欺瞞が、ずっとまかりとおっているのは、なんなのだろう。
英霊とは英雄の霊だろう。だが英雄は、戦争に勝たなければいけない。負けてしまったら、やっぱりそれは売国奴というべきだ。
戦争をするというのは、そういうことなんだと思う。

この道理が通っていないこの国ってなんなんだろう。国会議員たちが、売国奴たちを拝みに行くっていうのはなんなんだろう。
なんなんだろう。

売国奴、というのが言いすぎであるにしても、英霊、という言い方は、正しくない。死者を仏さま、などというのが、正しくないように。死者は死者である。英雄が死んで英霊だろう。仏は生きても死んでも仏だろう。生きていて仏でなければ死んでも仏ではない。

「戦争は負けたら駄目です。負けたらみじめです」
戦勝国でありながら、負け戦のみじめさを、日本の被爆者以上にしたたかに味わってきたのが、陜川(ハプチョン)の被爆者だということに、先生の言葉とともに、思いいたる。被爆の惨状のなかでさえ、朝鮮人は差別された、という証言も聞いた。長い間、平和公園の外にあった韓国人慰霊碑は、差別の象徴のようにも見えた。

80年代頃、平和運動の場で、広島エゴという言葉をよく聞いた。広島エゴをどう乗り越えるか。被爆の惨状を訴えるのが、なぜエゴなのか、と不思議だったけれど。訴えても聞いてもらえないという現実の前で、日本の戦争─アジアへの侵略─は、単に歴史の問題でなく、被爆者たちの内面の問題としても、あらわれてきたのだと思う。日本人エゴをどう乗り越えるかということも含めて。うまく言えないのだが。

80年代から90年代にかけての、平和運動のもっとも美しい軌跡は、それは、自己の悲惨を通して、他者の悲惨に気づく、というプロセスであったと、私はある被爆者の方との出会いを通して思った。たぶん、ヒロシマが「人類の記憶」であること、世界遺産であることのもっとも崇高な精神性は、魂のそのような変革にあるのだと思う。

それは靖国の思想とは正反対のものであると思う。

向いの森の桜、一分咲き。