陜川(ハプチョン)のこと

4月だ。
「4がつはいやなの。カレンダーめくらないで」と、ちびさんぐずぐず言っていたが、カレンダーめくらなくても4月は来るし、もうめくっちゃったし。「ようちえん、いやなの、いかないの」とゆうべも泣いていた。どうするかあ。憂鬱な4月だ。

竹西寛子「言葉を恃む」読了。講演集。芭蕉勅撰和歌集などについての講演もあるが、広島に関する話がやはり興味深かった。「儀式」という最初の小説から、地名などの固有名詞がいっさい消えているのはなぜか、など。原民喜についての話もあったので、「夏の花」三部作、20年ぶりぐらいに読み返す。以前は内容に圧倒されただけだったと思うが、読み返して、表現の喚起力が、尋常でない、と思った。

NHKスペシャルで世界遺産アウシュビッツ原爆ドーム、を放映したのを、録画していて、ゆうべ見た。
韓国の被爆者のことがとりあげられていて、陜川(ハプチョン)の町の光景が映ったとき、泣きそうになった。
陜川(ハプチョン)は、韓国の広島といわれている土地。被爆当時8万人の朝鮮人が広島にいたという。陜川(ハプチョン)出身の人が多かった。

学生のころ、陜川(ハプチョン)に行った。韓国へのひとり旅の途上で。韓国語もできないが、船に乗ったのである。
釜山慶州へ行って、テグからバスに乗って陜川(ハプチョン)へ。陜川(ハプチョン)で、バスを降りて、あてもなく歩いていたら、食堂の裏庭に迷い込んで、するとその家のおじさんが、店にあげてくれて、のりまきを出してくれて、ホテルを探していると言ったら、ホテルは高いから、ここに泊まれ、と泊めてくれた。
日帝時代、おじさんは宮崎で働いていた。おばさんは、広島で生まれて被爆後帰国した人だった。聞くと、そのころ私が下宿していたあたりで被爆したのだった。ふるえがきた。首のケロイドを見せてくれた。被爆治療で、何度か広島の病院に行ったと言った。あのころ河村病院の先生が、熱心に渡日治療を受け入れていた。
娘たちが何人かいて、働いたり別の町の学校に行ったりしていたが、キョンジャという同い年くらいの女の子が、高校を出てから家にいて、彼女が町を案内してくれた。小学校と河原と。秋で、ポプラとコスモスがほんとうにきれいだった。白い河原と青い空と。キョンジャと肩にもたれあうようにして歩いたのが、すこしドキドキした。そんなふうな親しさで誰かと一緒に歩いたことはなかったから。会話が出来ないから、ほとんど黙って歩いていた。韓国の秋の空は美しい、とキョンジャが言った。ような気がした。
原爆診療所にも連れて行ってもらった。休みの日だったのに、わざわざ院長先生が出てきてくれて、何しにきたのかわからない私なんかのために時間をとってくれた。あれこれの話のあと、「戦争は負けたら駄目です。負けたらみじめです」と先生が言ったのを覚えている。
市場で、母親を見つけると、キョンジャが「オンマー」(おかあさん)と呼んだ。あの「オンマー」の声が、テレビの映像のなかから、聞こえてくるようで、涙が出てきた。

翌年の夏、もう一度訪ねた。夏休みなので、キョンジャの姉妹たちもいた。別れ際キャンディーでブーケをつくってくれて、リボンに「またおいで」と韓国語で書いたのをもたせてくれた。いつでもまた行けると思っていたのに、それから行けないままでいる。気がつくとおそろしく歳月が過ぎた。

もしも尋ねる人があったら、陜川(ハプチョン)に「ファラン食堂」という食堂がいまもあるかどうか、キョンジャが元気かどうか、みてきてくれないかしら。昔、日本の学生がとても親切にしてもらって感謝しています。