原爆文学と定型の解体

広島大学で、原爆文学の研究会があったらしいと、人づてに聞いた。そこで、私と河津さんの共著「christtmas mountain わたしたちの路地」から野樹の短歌がとりあげられていたと聞いて、仰天した。

原爆文学の研究会なんて、私が学生の頃はなかった。あっても不思議じゃないのに。原爆文学どころか、だいたい近代文学の教授がいないというありさまで、私の卒論をみてくれた先生は芭蕉の研究者だった。卒論は在日朝鮮人文学をひとりで勝手にやったけど、そうでなければ原爆文学をやりたかった。原民喜の文章が好きだったので。

だけどまさか、自分が原爆文学を書いているとか、夢にも思わないことだった。もし私が学生のころに、そういう研究会が大学であったら、どきどきしながら、日頃まじめに大学に行ってない後ろめたさなんかも抱えながら、参加したかなあ。で、あのころの私のかわりに、私の短歌が、そこにいたわけだ。

原爆詠についての発表のなかで出てきたらしい。韓国人被爆者の聞き取り作業とハプチョンの路地のくだり。

 かえれんよ原爆で焼かれて何もない向こうへかえってもなんにもない
 「アガシ、オディカニムカ」迷い込んだ路地で呼び止められたハプチョンの町
 原爆は十二歳のとき。首と胸にケロイドあるでしょう今でも痛い

<これまでの原爆詠が取りこぼしてきた人びとの声の痕跡に迫る>として、紹介されたらしいから、それは望外に嬉しいことだ。被爆者のあのお母さんたちの声を再生したい、という気持ちは、あのお母さんたちが亡くなったと知ってから、ひそかにあったような気がする。お母さんたちの声に、気づいてもらってうれしい。

私の下手な短歌にかかわらず。

さてそれで、野樹の歌は定型が崩れている、という話もあったらしい。
ああ、それはいつも指摘されるのだ。指摘される度、なんだかごめんなさい、という気持ちになる。指摘してもらっても、なんとも説明できないからごめんなさいなんだけども。
破調とか字余りとか句またがりとか、短歌らしくないこととか、たぶん、善意の誤解も含めて、いろいろと解釈してもらったりするんだけど、困ったことに、本人、どうしてこうなるのかわからない。
定型の解体、とか、私自身は考えたこともない。

短歌は、なんとか伝えようとしてこうなりましたって、いうのが私的にはすべてで、そのときに5+7+5+7+7=31って計算するのは忘れてる。数え出すと気持ち悪くなるか、つまずくかして書けなくなるので、だから、偶然ぴったり31になったりして、短歌らしいものになったらいいなあ、ってルーレットか宝くじみたいに、待ってる。
100個書いたら1個ぐらいはあたるかなとか、神さまが味方してくれたらくじ運がよくなるかも(私自身はくじ運はない)、とか。

とか。