ちきゅうをなおすおじさん

月からの、満地球の写真。
子どもに見せて、何かときいたら、迷わず地球と答えた。
この写真をパソコンの壁紙にしてみたら、地球がすこし縦長になった。
それを見て、けらけら笑っていたんだが、どうしようか、と言ったら、ちびさん、「だいじょうぶ」と言った。「おじさんが、なおしてくれるの」
どのおじさんが?
「ちきゅうをなおすおじさんが、なおしてくれるの。ちきゅうおんだんかも、なおしてくれるの」

ちきゅうをなおすおじさんだって!

そうだね。おおきくなったら、きみもきっと、ちきゅうをなおすおじさんになりなさい。ちきゅうをこわすおじさん、ではなくて。

ずっと以前、夢とうつつの間くらい、もしかしたら正気と狂気の間くらいで、こんな地球を見た。遠くに地球が丸く青く見えて、私は宇宙空間にぽつんといた。ものすごいいきおいでそこにとばされてきていて、もう2度とあの地球にもどれないのだろうと深い絶望を感じていた。あたりに母の気配を探して、どこにも気配がなく、生きても死んでも一緒だった母ともはぐれてしまった、もう永遠に私は孤児だ、という認識はすさまじい恐怖で、いま、この状態で死んでしまうこと以上に怖ろしいことはない、と思った。それから、自分の悲鳴が聞こえた。たぶん、自分の叫び声で、地上に戻ってきたのかもしれないんだけど、あれは怖ろしい夜だった。東京にいたころだ。

それから2年くらいたった頃、フィリピンで、夜のゴミの山を歩いていた。漆黒の闇の中に、ゴミのトラックやブルドーザーのライト、ゴミを拾う人たちのアルコールランプの火、ゴミ山の自然発火の炎が赤くゆれていて、ゴミを拾う人たちの存在が、はじめて会うはずなのに、異様ななつかしさで胸に迫る。私はずっと昔からこの人たちと一緒だったし、ずっと後にも一緒だろうと感じていた。不思議な力に押されるみたいに、ひとりでゴミ山をのぼっていきながら、自分が大きな生命の流れのなかにいる、という深い安堵感に包まれていた。だから、どこにいても、生きても死んでも大丈夫なのだ。永遠のよろこびと清らかさが、あるとわかった。
ゴミ山の学校の支援活動をはじめるなんて、まだ夢にも思っていなかった頃。自己憎悪にも疲れて、自分をゴミにして放り捨てたいと思った気持ちのままに訪れたゴミの山で。

目に見えないことだから、こうして言葉にしてみるよりしょうがないんだけど、あの恐怖も、あの安堵も、実に生々しかった。魂は、途方もない旅をする。ほんとうに途方もない。