罪のありか

光市の殺人事件、元少年への広島高等裁判所の判決は「死刑」だった。
ニュースを見ていて、被告に死刑を求めつづけた遺族の闘いが、ふと、少年を殺そうとするものではなく、逆に、生かそうとするものであるかのように、思えたのが、不思議だった。促しているのは、たぶん、闘いなのだ。元少年の自分自身との。

善悪は、生死を超えるものかもしれない、と思った。
きっちりとどこかで向き合っていかなければ。

岡山のホームからの突き落としの事件、少年は発達障害だった、というニュース。少年の追いつめられ方、は、他人ごととも思えない。
私自身、18のときに、もしも進学がかなわなければ、どんなに絶望感に襲われただろうと、思うだけでこわい。国立大学は、こんなに授業料を高くしてはいけない。
そうでなくても、社会に自分の居場所を求めることが難しい子どもが、場所を追われつづけて、許される居場所として刑務所を求めるほかなくなっていったのが、なんだかもう、つらくてしょうがない。
こういうニュースが流れると、発達障害は危険、という色メガネに世間が染まっていくだろうというのが、少年同様、アスペルガーの私たちとしては、とっても憂鬱ではあるんだが、少年をいじめた連中は、たとえ司法で裁かれなくても、殺人の罪をわかちもつと思うよ。そして、もしかしたら、裁かれることもない彼らこそ、救われがたいかもしれない。

ひとをいじめることは、自ら、幸福から見捨てられた人間になることだと、それはもう、語って語って語ってゆかなければならないことだと思う。ひとをいじめて、幸福になるということはないと思うよね。

トニ・モリスンの「青い眼がほしい」という小説を思い出す。
青い目が欲しいと思った黒人の少女が、いじめや貧困や暴力や、いろんなことで、やがて狂気の淵に落ちていく。少女の友人の黒人姉妹は、マリーゴールドの種をまいたのが、育たないのを自分たちのせいだと思い、姉妹けんかするが、ほんとうは土壌が病んでいて、マリーゴールドは育たないのだ、という話。

ちびさん、今日からお弁当。布に包むきまり。箸をつかうきまり。そのどちらもできないが、まあ、がんばれ。
夜、「さんかんび、こわかったの」と言われた。30人のクラスが大丈夫なら、親たちがきて60人になっても平気だろう、というものではないらしい。ふざけたり走りだしたり、かたくなだったりしたのは、こわいせいもあったのかもしれない。
きっとみんなから距離を置いて、教室のはしっこにいるのも、ちびさんなりの、落ち着ける場所の確保の仕方なんだろう。
世の中は、自分から求めてゆかないと、居場所を与えてくれたりはしないのだと知ってしまった大人としては、すみっこへの落ち着き方が、いていいはずの場所をみずから放棄することとも見えて、せつなかったりはするのだが、それでも、きみがそこにいるのがいいなら、そこにいることは絶対に正しいのだし、きみはきみの仕方で、楽しんでおいで。

うちの庭のマリーゴールド。毎年、なめくじの食卓になって枯れてしまう。私が手入れしないせいだが、それでも懲りもせず、毎年植えている。たぶん、秋まできれいに咲いてくれたら嬉しいだろうと思って。