身体測定その後

昨日、幼稚園のバスから降りるなり「しんたいそくていしたの」と、ちびさん得意そうに教えてくれた。帰ると連絡帳もってきて、「りくがしんたいそくていしましたってかいて」というし、自分でもメモに書いていた。
夕方、担任の先生が電話で詳細知らせてくれる。服は脱げなかったのだが、こわがりながらも、なんとか体重計にものったし、身長計の、頭上から何か降りてくるのがこわそうなのも、我慢できたらしい。

さらに。帰りのさよならの挨拶のとき、みんなが輪になって歌うとき、ちびさん、輪には入らず、勝手なことをしているのが、昨日は自分からやってきて、「いれて」と言ったのらしい。それでみんなと手をつないだのだ。
おお、それは上出来すぎる。
「みんなのところ、できれば先生の近くに行って、いれて、って言ってごらん」
と、何日か、言ってみてはいたのだが、本当にできるとは、期待していなかったのに。ちびさん、きみはすごいよ。

目に見えないことの認識が苦手だし、とても不安。でも未来は目に見えないものだし、次に何が起きるか、ということは、言葉で言われても把握しにくい。何をするかわからないのに、自分がこうしよう、と思ったことではないのに、みんなと一緒に行動する、ということは、難しいというか、そもそも無理というか。
なので、みんなとの間に、必ずズレが起きる。みんなと一緒に右へ動いたり左へ動いたりしていられれば、意識しないですむズレを、毎日意識しなければならない。次はそのズレをどうするかを自分で考えなければならない。
ズレたままでよしとするか、ズレを埋めるか。ズレたままでよしとするなら、それをまわりに納得させなければいけないし、ズレを埋めようとするなら、その仕方を知らなければいけない。
たぶん、スキルとして身につけていかなければならないのは、そのあたりのことで、ズレの埋め方を具体的に教えることもできないままで、みんなと一緒にしなさいといっても、それはむごい話だ。
(ほんとに、どうして、みんなができることが、あなただけできないんですかって、子どものころからどれほど言われてきたかを思い出したら、げっぷがでるって。)

ある場所にどのように存在するかについて、所属、ということについて、多くの子どもが、まったく意識せずに葛藤せずにすむだろうことについて、この宿命的にズレてしまう子どもは、ひとつひとつ、いちいち、ズレを意識し、態度を意思していかなければならない。態度を決めるにあたっては、今度は認識のズレの問題がでてくるから、また面倒なのだが、そのあたり、マイノリティーの問題として共通するものがあると思う。
なんにしても、日々の葛藤の分だけはきっと、きみは深い生き方のできる人になるよ、ちびさん。だから、倒れるな。

電話をきってから思いだした。ちびさん、靴下を脱ぐのに抵抗する。去年の夏は、療育のクラスでプールなのに、服も靴下も脱ごうとしなかったんだ、そういえば。身体測定、もうひとつハードルが残ってるわ。服を脱ぐ。