おかあさんケロロ?

午前中、幼稚園に行く。母親の会の総会のようなことだったが、委任状を出して欠席してもさしつかえのないようなものだったと、行ってみてわかる。ホールのすみっこで、うちのちびさん遊んでいる。教室で朝のつどいがはじまっているはずの時間なのになあ、と思っていると、園長先生に抱きあげられて教室に運ばれていった。

朝は熱なかったけど、前夜すこしあったので、様子みて、しんどそうなら早退させて病院に連れていこうと思って、総会のあと、教室に行く。みんなお絵かきをしていた。
何をかいてるの、と聞くと、「おかあさんのかお!」とほかの男の子が教えてくれる。みまわすと、みんなおかあさんのかおをかいている。母の日のプレゼントを準備しているのだ。
ちびさんもおえかきをしているが、何をかいてるの、と訊く気にはならない。おかあさんのかお、なんかではもちろんなくて、ケロン星人たちの絵。茶色いクレヨンで、ケロロくんクルルくんたちをかいている。

ということは、あたしは母の日に、息子から、宇宙人の絵! をもらうのだろうか。あたしは、母の日に、おかあさんのかお! をかいてもらえないおかあさんになるのだろうか。

かるーくショックだ。

ちびさん、へいき、かえらない、というので、先生にお願いして、そのまま置いて帰る。

午後、いつものように園バスで帰ってきたちびさんに、今日は何をかいてたの、と聞いたら「おかあさんケロロと、クルルくんかいたの」という。

おかあさんケロロ

なにそれ。

夜、その話をすると、「おかあさんの顔、難しくてかけないと思ったんだよ、きっと」とパパが言う。かもしれない。
ちびさん、おかあさんの顔をかいたことは一度もないし、たぶん、おえかきの題材になると思ったこともない。
きっと、いつも乗り物の絵ばかりかいている男の子が、突然お姫さまの絵をかけと言われたみたいに、逆に、いつもお姫さまの絵ばかりかいている女の子が、急に新幹線の絵をかけと言われたみたいに、とほうにくれることだったのだ。

(では、ほかの子たちが、おかあさんの絵をかけているというのは、どういうことだろう。難しくないんだろうか。)

おかあさんケロロ、と、ケロロに「おかあさん」がついてるぶんだけは、先生の指示を理解していないというわけでもなくて、ぎりぎり妥協したんだろうなあ。
まあしょうがない。おかあさんケロロの絵でももらおうか。

でも、難しいと思ったままでも困るので、おかあさんのかおなんか、かんたんかんたん、と一緒にクレヨンもってかいてみる。まるかいて、めえかいて、はなかいて、くちかいて、ときどきめがねかけて、みみがあって、かみがばさばさ。できあがり。
するとちびさん、「パパもかく」という。それでパパの顔も適当にかくと、「ちびもかく」と、自分の顔も加えろと主張する、のでかく。
たぶん、ママのかおだけ、というのは、コンセプトとしても彼には了解できないことなのだろう。

クラスには、うちのちびさんのほかにも、ズレてしまう子たちがいるようで、ひとりの男の子は、年少のクラスの妹を連れて教室を徘徊している。もうひとりの男の子は、教室の外で、ひとりできもちよさそうに飛び跳ねていた。

いきなり私は理解した。療育のクラスでは、このような子どもたちが中心だったが、世間では、このような子どもたちは辺境なのだ。母の日におかあさんのかお、をかける子どもたちが、圧倒的多数である世界では、かけない子どもたちの物語は、気づかれないですぎるだろう。

いいよ、おかあさんケロロで。

思えば私も、人生の最初の友だちは火星人だった。火星人が地球にやってきたお話のレコードがあって、火星人が何かしゃべってる声が面白くて、毎日毎日、それをかけてもらっていた。レコードを聞いてあげないと、せっかく地球にやってきた火星人が、さびしがるような気がしたのだ。

子守歌でも聴こうっと。
↓バードランドの子守歌。エラ・フィッツジェラルド