続トラウマスイッチ

昨日、ちびさん、元気に幼稚園から帰ってきたが、箸が一本ない。
箸がなくなるの、これで2度目。
おはし、どうしたの、ときくと、「わからない」と言う。でもどうして一本だけなの、とさらにきくと、「おともだちがもってた」と言った。

パパのトラウマスイッチが作動した。「昨日は水かけられて帰ってきたし、いじめられてるかもしれないぞ。箸をとりあげるなんて、人の困ることをわざとする奴らがいるんだ。」(ちびさん、箸じょうずに使えなくてたぶん手で食べているから、箸なくても困らないと思う、と思うけど、言わずにおく)

とにかく幼稚園まで、箸を探しに行くぞ。ということで、行く。
行くとすぐに、担任の先生がにこにこしながら箸を出してくれた。前になくしたやつと二本。
真相はこう。ちびさんが箸を落としてしまったのを、おともだちが探して一本だけ見つけてくれた。だから「おともだちがもってた」のである。
ついでに昨日濡れて帰ったのは、ほかの子たちが水遊びをしていたところを通って、水をかぶったから。
「きょうは眼科検診があるのを、こわがっていたけど、でも逃げ出さずにがんばって検診できましたよ」と先生。

なんだ、みんなが助けてくれてるんじゃないかあ。
「いいんだ、親が恥かくのはいいんだ。なんでもないとわかればいいんだから」とパパがいうのには賛成。

思うに、ちびさん、場面場面は記憶しているんだけど、ものごとの因果とか、人との関わりの部分とか、目に見えない部分の理解が難しい。それは私もそうなんだが。

昨日「心配なのは、うちのちびさんなんか、私と似てるし、いじめられても、いじめられてることに気づかないだろうな、ということ。」と日記に書いたけど、いやいやそれ以前に、もっと心配なのは「助けてもらっても、助けてもらっていることに気づかないこと」だ。

「助けてもらっても、助けてもらっていることに気づかない」
他人の感情や行動の意味に気づかない。それで、人を怒らせるわけだけど、(私もたくさん怒らせてきたんだけど)、それは本人のせいではなくて、そこが発達障害、発達の遅れの部分なんだけど。(ということがわかってもらえないと、憎まれるわけなんだけど)。

ということで、ちびさんには言い聞かせる。「きみがお箸を落としたのを、おともだちが拾ってくれたんだよね。だからおともだちが箸をもってたの。それでおともだちが拾って渡してくれたんだよね」
というと、「ちがうちがう、おともだちは、かしの木先生にわたしたの」と訂正が入る。で、つまり、かしの木先生(担任)が、ちびさんに渡してくれたのだ。
「きみが落としたのを、みんながさがして、見つけてくれたんだから、きみはありがとうをいわなくちゃいけないんだよ、わかる?」

たぶん、人と人との関わりや、出来事の因果について、目に見えないこと(でもたぶん、ふつうは、自然に理解されてゆくこと)について、ひとつひとつ、言葉にして、把握してゆくことが、必要かもしれないなあ、と思った。

たぶん、私が十代のころに、日記からはじまって、あれこれものを書き出したのも、そのような理由で、必要だったのだ。

あんまり世の中がわからなくて息ができないほどだし、怖ろしいから、書けばわかるかしら、と思った。それより何より、どうかして息しなきゃ、みたいなことだった。

幼稚園に箸を探しに行くときは打ちひしがれていたちびさんが、お箸もらって幼稚園から帰るときは、上機嫌でケロケロうたっていた。

私たちのトラウマスイッチもOFF。
疲れるから作動しないでほしい。しかも誤作動だしっ。

飛行機雲。新緑に五月晴れ。運動公園で遊びました。