こわれた日本語

もう十年ほども前だが。
東京からこちらに戻ってくると、ときどき在日韓国人被爆者の張さんのお宅に泊めてもらっていた。ある時張さんから原稿の束を見せられた。
中国から帰国した老婦人から渡されたものという。忙しくてなかなか読めないから、ちょっと読んで内容を教えてほしい、と言うので、目を通してみたのだが。
読めない。

日本語がこわれているのだ。

日本で生まれて満州に渡ったこと、敗戦で引き揚げるときの逃避行の様子、ソ連兵がきたこと、結局その人は帰国せず中国人と結婚して中国に残り、日本人だといじめられ、戦後数十年たってようやく、成人した子どもたちや幼い孫たちと日本に帰国した。
という内容だとはわかったが、細部に何がかかれているかは、読んでも読んでもわからない。主語述語、てにをは、何もかもがこわれているのだ。
たぶん、私が外国語で作文を書いたら、こんなふうかもしれない。

戦後、韓国にのこされた日本人妻たちが、ナザレ園で、君が代を歌っているのを、ずっと以前に何かのテレビで見たことがある。歌詞は君が代だが、音程はまるでちがっていた。すっかり別の歌だった。その君が代のことを、中国残留の体験の原稿を読んだとき、思い出した。

原稿をコピーして、もって帰って、一文ずつ、読める日本語に、意味を推測しながら書きなおそうと思った。書きなおした原稿を、本人に見てもらって、訂正するところはして、きちんとした原稿にしようと思った。

そのお願いを張さんにしてもらったら、原稿は、張さんを信頼して、張さんにだけ読んでもらおうと思ったものなので、他の人に渡さないでほしい、という本人の希望だということだった。

それで私は、コピーした原稿を、私自身が読まないですむように、どこかにしまいこんだ。捨てた記憶はないので、探せばどこかにあるかもしれないが、こわれた日本語の束が、この家のどこか、私の記憶のどこかにあるかもしれない、と思うにとどめている。

あの原稿を書いたのが、どこのだれなのか、私は知らない。張さん──あのこわれた日本語を読むことをゆるされていた唯一の人は亡くなってしまった。きっと張さんも、あの原稿は読めないままだったろう。


ちびさん、今朝、幼稚園バスに乗るのをこわがって、ずずずずずっと尻から後ずさりする。幼稚園の先生が抱き上げて乗せてくれた。
バスが止まる場所が、いつもよりすこしだけ歩道よりで、いつもよりすこしだけスピードがあって、いつもよりすこしだけ、止まるときの音が大きかったからだと思う。すこしだけ、なんだけど。