猫の餌

そうだ、思い出した。フィリピーナたちに慕われていた街娼の「おかあさん」は、毎日あれこれの総菜を買って、猫たちに餌をやるのが、客待ちの間の楽しみらしいのだが、ある夜、私たちにこう言った。「今日はみんな猫たちにやってしまって、もう何にも残ってないわ」。その言い方がおかしかったけれど、自分たちも猫のように愛してもらえるのかと、その声を私はとてもやさしいもののように聞いた。
もうそろそろこんな仕事もやめなきゃね、と「おかあさん」は言っていたらしかった。いまごろ、どうしているだろう。二十代のはじめの、私と同じ年ぐらいだったフィリピーナたちも。父が死んだので大学をやめて妹たちの学資を稼ぐために働きに来ているという女の子がいた。別のひとりは妊娠していた。恋人の米兵とは別れていて、でも子どもは産むのだと迷いがなかった。家族のために働くとか、父のない子を産むとか、そのころの私は彼女たちのことを、まるで理解できなかったけれど、それから10年ほどもたって、フィリピンのスラムに通うようになって、彼女たちには、それがとても自然ななりゆきであり、心の決め方だったのだとわかった。
授業料が払えなくて大学を休学していたころだったろうか、留年を繰り返しながら、なんとかバイトで食いつないでいた学生だった、ある年の夏。
夏の真夜中の川べり、生暖かい風のなか、よるべなさを、よるべなさのまま、投げ出していられるような、なんだかそれは、やさしい集いだった。

私と女の子たちだけがいたある夜、店の客だかなんだか知らないが、男が声をかけてきた。せっかく日本に来たんなら日本語を覚えなきゃ、みたいなことを言い、それから、言葉なんか覚えんでも、男と寝ることだけ知ってればいいと、そういうことを、もっと卑猥な言葉で言った。私は驚いて声も出なかった。女の子たちは聞こえないふりをしていた。言いたいだけ言うと、男は立ち去っていって、私はその背中見ながら、このおやじ、殺してやる、と思った。あとから何度も思い出して、その度に、声も出せずにいた自分が、腹立たしく悔しかった。

ずっと後になって、フィリピンのゴミの山で、子どもたちにどこから来たのかときかれて「ジャパン」と答えたら、ジャパンなんて、だれも知らない。だれかが「ジャパユキ」とひらめいて、きっと意味はわからなくても言葉だけはよく聞いているのだ、「ジャパユキだ、ジャパユキだ」と子どもたちに取り囲まれた。
ゴミの山の上で、ジャパユキごっこして、遊んだねえ。みんな元気だろうか。もうすっかり大人だろうな。いまもゴミの山にいるんだろうか。やさしかった、ちいさな友だち。