「故郷を葬る歌」

二十代はじめ頃の中上健次の詩。

「故郷を葬る歌」

ひらけ熊野
俺の男根とはらからの精液をくめ
浅利
亀井
山下を刺せ
ほそぼそと肛門をひらき流れる売春婦(みうり)川よ
(略)
市長を殺せ
教育長を殺せ
裏切り者渡辺靖男をしばり首にしろ
母千里を殺せ
父、七郎を殺せ、留造を殺せ
姉、鈴枝を殺せ、静代を殺せ、君代を殺せ
熊野よ、わがみくそもじよ
わが町、春日を燃やせ、野田を燃やせ
わが連潯にしるされたもろもろを
呪え
(以下略)

たいへんな呪詛なのだが。
秋葉原の事件のあと、掲示板に殺人予告しては、逮捕されるということが相次いでいる。成人は名前まで公表されて。
この詩、もし今の時代にネットの掲示板に投稿したら、犯罪になるのかな。殺人教唆、とか? 警察くるかな。

「「殺せ」とか「刺せ」とか書けば書くほどみなし児のように愛を求める感情のほうが強調されて、故郷熊野にとりすがろうとする心のありさまが見えてくる」(「エレクトラ高山文彦

宮崎勤の死刑が執行された。このタイミングで。
けれども、死刑制度が、実際に処刑されると見せつけられてさえも、それが、犯罪の抑止力になるとはとても思えない。
まるで自殺するかわりに、殺人しているようだもの。救いを求める言葉の代わりに、ナイフ。

死刑を容認し、死刑を求める声は強くなっていくばかりのようだ。殺せ殺せ、という声が、その水位をあげている。きっと絶望が水位をあげている。絶望。加害者の、被害者の、傍観者の。

「故郷を葬る歌」を書いてから二十年後、中上健次は、故郷に熊野大学を開講した。校舎もなく入試もない、一地方に軸足を置いた文化創造運動。その開講式によせた文章には、次のようにある。

「世界は危機に遭遇している。(略)近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信がこの大きな錯誤を導いたのだ。
 私たちはここに霊地熊野から真の人間主義を提唱する。(略)人間は自由であり、平等であり、愛の器である。(略)」

泣く。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。

アルバート・アイラーのゴースト