tragedyの傍らで

「台風でゴミの山が崩れたって、ニュースで言っていたよ、一週間ほど前だけど」と近所の人が教えてくれて、一瞬ぞっとした。
フィリピンの台風でフェリーが沈んだ事故の死者は800人というし、それ以外の地滑りその他の死者も数百人に及ぶというし。
でもフィリピンのゴミ山が崩れたとは聞いてない、と思って、調べたら、グアテマラだった。
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2408277/3059502
ゴミの山が崩壊して、7人死亡、20人行方不明。そのあとの情報がないのだが、20人程度じゃないかもしれない、と思う。そこでゴミを拾って生きる人たちがいたということは。
ゴミの山は、崩れやすい。

2000年にパやタスのゴミの山が崩れたときも、最初の報道はその程度だった。死者は増え続け、1週間後には200人を超えた。なお80人が行方不明ということだったが、地元の人たちは、80人なものか、まだ何百人も埋まってる、と言った。学校の生徒23人もその家族も親戚も見つからなかった。2週間後、私が訪れたときは、もうブルドーザーが均していた。

tragedy(悲劇)という単語は、あの事故のときに覚えた。人々はその悲劇の傍らにいて、それでも、人が生きるということは、朗らかでありつづける、ということでしかないのだと、思った。毎日、私は崩落現場や避難所をうろうろしながら。

思えばtragedyにあふれた地上だが、どんな悲劇よりも悲劇的なのは、魂が朗らかさを、失ってしまうことだ。きっと。

フィリピン、米の値段が高騰しているらしい。去年の2倍とか。ガソリンも高騰している。ジプニー代が工面できず、学校に行けない子どもが増えている。パアララン・パンタオへの入学希望者は多いが、たぶん、受け入れ能力としては、去年より50人増しぐらいが精一杯。

去年、レティ先生が分校の増築工事を決行したのは、英断というべきだ。(資金の工面ができるかどうかわからない、と私は言ったのに、レティ先生は、物価が高騰しているから、今年じゅうに建てる、と工事再開してしまったのだ。)助成金も得られて、資金の工面もできて、ほんとうにほっとしたけれど、もらえなかったら、借金を抱え込むとこだったし、今年にずれこんだら、物価高騰で建てられなかったろう。
きわどいところで、まもられた。