つながっていること

昨日は、環境問題の勉強会に誘われた。十数人の集まりで、ゴミの山と、学校の話をさせてもらう。

あらゆる品物と同様に、ゴミが国境を越えて流通していること。こちらも勉強不足で、それが巨大なビジネスにもなっていることの、全体像を描くなんてことはできないのだが、たとえば、日本の中古家電が大量にフィリピンのゴミ山に捨てられていたこと、など。
そうしてゴミの収集、分解、仕分け、の現場で、人々が貧困と、最悪な衛生状態のなかで、健康被害や、ときに生命の危機にさらされて生きているということ。
ゴミ山の子どもたちの写真は衝撃だったようだ。それぞれの子どもたちの家庭環境なども話す。それからレティ先生とパアララン・パンタオの話。

いろいろ率直な質問も出て、こちらも勉強になったのだが、違う世界、違う環境、にある人たちのことを、たとえば隣人や友人たちの問題のように、同じ人間の問題として感受する、ということが意外に難しいのだと、気づかされた。
たとえばゴミの山の子どもたちが、遠い世界、別の世界の、特別な環境の子どもたちではなく、自分たちの暮らしとつながった世界に、同じ地平に、自分たちと同じような願いや夢をもって生きているのだということを、感じてもらうこと、が、まず最初だと、思った。
そこに、ごくふつうの願いをもった親子の暮らしがあるということ。
国境や民族や環境の差異を超えて、人間の姿を感受する、ということ。

彼らはかわいそう、私たちは日本に生まれてよかった、という感じ方を、転覆させること。恵まれているはずの日本で、なぜ人は幸せに生きられないのか。一方で、ゴミの山の学校を通して彼らがつくりだしている希望は何か。

出席者のなかに、昔、パアララン・パンタオに寄付をしたことがあるという方がいて、嬉しい偶然だった。私たちが支援活動をはじめる前に、広島や岡山のグループが寄付してくれたことがあり、それで学校の建物の整備をしたとは聞いていた。現地に行ったのは代表だけで、彼は行ってないらしいが、いろいろ報告できてよかった。昔の仲間のみなさんに会うことがあったら、どうぞよろしくお伝えください。

ちびさんは、パパが子もりしてくれる。私はひとりで、本屋で立ち読みして帰る。昔ときどき行った朝鮮料理屋が近かったので、ビビンバも食べて帰る。