つらいの

「つらいの」と言う。ちびさんが。
よる、ねるのがつらいの。こわいゆめをみるから。

そう言って、さて寝ようという時間になると、本をかかえてくる。
それでも3冊ぐらい読んだら寝たか。

「つらいの」と言う。ちびさんが。
あいさつするのは、ぼく、つらいの。
幼稚園でおはようした? さよならした? と聞くと、しなかった、と答える。道で声をかけられても、返事しないし。
なんで? ときいたら「つらいの」と言うのだった。

そっかあ。つらいのかあ。

ああ。身に覚えがある。人に挨拶するというのは、ものすごくストレスのかかることなのだ。

小学校の頃(たぶん高校生のころも)、道の向こうから、近所の大人とか子どもとか、先生とか同級生とか、知った人が来るのが見えると、挨拶されることも、挨拶しなきゃ、と思うことも苦痛で、わざと違う道に入って遠回りをしたり、電信柱に隠れたり、隠れられないときは、思いっきりうつむいて気づかないふりで歩いたり、なーんかとってもしんどかったなあ。

そのうちそれに、いろんな自意識とか自己嫌悪とか絡んでくるようになると、気持ち的にぐちゃぐちゃ。休み時間も道を歩くときも、ずーっと本を読んで、外の世界をシャットアウトするようにしたのが中学生のころだ。たぶん、そうしないと自分が保てなかったんだな。

今でも私は、道でふいに知った人をみかけてしまうようなとき(これから会うという気持ちの準備ができていないときに、ふと人にあってしまうようなとき)相手が好き嫌いとはまったく関係なく、まず逃げ出したい気持ちになり、それから急いで気持ちをやりくりして、明るい挨拶するんだけどもさ。

挨拶というのはさ、挨拶するのもつらいけど、しないことも、つらいんだよ。でも挨拶すると、つらいのが、楽しいに変わる可能性もあるから、するんだよ。でもできないときは、できなくてもいいよ。
挨拶できるのがいい子っていうのは、まわりの大人が安心したいだけだったりもするからさ。

ちびさん、園バスを降りるときに、必ず運転手さんに、何かお話してバイバイして帰るのだけは、感心なんだが。(運転手さんは前にいて、降り口は後ろのほうなのに)