帰路

秋海棠。庭にこの花が咲くと、秋がくるなあ、と思うわ。
ツユクサや、えのころ草は、郷愁である。なぜ、いつのまに、私は帰路を失ったかと、せんないことを思ってしまう。
でも、子どものころも思っていたのだ。小学校からの帰り道に、家が近づいてくると、ここじゃない、という気持ちがしてくる。ほんとうに帰るところは別にあるのに、それがどこか、どうしても思い出せない。それで、とりあえずいま、この世の自分は、この家を家として、この父母を父母として、生きるしかないらしいと、あきらめて家に向かうのだった。


ふと思い出した。

小学校6年のときの担任は、今から考えると、そんなことを児童の前で言っていいのか、ということを、わりと発言していた。ほかの学校から来て、私たちのクラスを担任したとき、このクラスには驚いた、と言った。30年以上教師をやってきたが、こんなに母子家庭や生活保護世帯の多いクラスははじめてだ。クラスの3分の1以上がそうだ。
まあ、そのようなクラスだったらしい。
1年が過ぎて、卒業記念の写真を撮ったときも、担任は驚いた。いったいきみたちの服装はなんなんだ。卒業写真なのに、ふだんとおんなじ。男子はジャンパーの汚れたやつを着たままだ。担任は呆れていたが、ふだんとおんなじ、以外の、どんな格好があるのだろうと、私は不思議だった。

担任が何を言っていたかを理解したのは、ずっと後になってからだった。卒業写真を見ると、男子も女子も、数人は、なるほどよそいきの格好だ。ということはそういう格好のできる人たちもいて、担任はそれを期待したのだろうが、たぶんその子たちは、ふだんも、新しい服を着て、学校に来ている子たちだった。
あとはみんなふだん通り。たぶん、いちばん安上がりの服は、私で、セーターはどこかからもらったものだったし、ジャンパースカートは、母の服を縫い直したもので、縫い目がよれていたりした。

でもそれがあたりまえだったのだ。地方の田舎町のはずれで、ごく貧しく暮らしていた。

韓国の田舎の町や、フィリピンの田舎の町に行ったとき、子どものころの風景のなかに舞い戻ったかと思うほど、なつかしかった。たぶん、暮らしの貧しさの感触が、同じだったのだと思う。