わりときれいな服、について

ときどき聞かれる。
子どもたち、わりときれいな服、着てるよね。
ゴミの山の学校に来る子どもたちのことだ。

写真だと、たしかにそう見える。子どもたち、学校に来るときはいちばんいい格好でくる。小学校の制服のおさがりだったり、学校で支給したTシャツだったり、NGOが持ち込んだ古着だったり、いろいろだが。市場で買えば、衣料品はそんなに高くない。
それなりの格好はできる。できるようにしている。そうでないと、ゴミ山の外の社会に出てゆけない。
学校は、ゴミ山から外の社会に出てゆくための通路のようでもある。
出てゆける子もいる。出てゆけない、引き返す子も多い。

でも、それなりの格好ができているから、それなりの暮らしができている、とか、そんなに困っていない、とかいうことではない。子どもたちが、こざっぱりした格好をしているというのは、子どもも家族も、懸命に生きる努力をしているということなのだ。せつないほど。
できなくなったら、きっと家庭崩壊しているし、暮らしが壊れている。

子どもたちのゴミ山での労働が禁止されていなかった頃、午前中学校に来る子は、午後ゴミ拾いをしていたし、午後学校に来る子は、午前中ゴミ山にいた。
学校に来る前、子どもたちは必ず体を洗って着替えてから来る。ゴミ山からそのままやってくる、なんてことは決してなかった。

もう十年以上も前だけど、日本のどこかの新聞のカメラマンがやってきて取材していった。雨の中、ゴミ山を案内した。帰国後、某雑誌に記事と写真を載せていた。そのなかに、ゴミ拾いのピックをもって学校に来る子どももいる、と書いてあって、ものすごく腹立たしかった。
その記事を見て、寄付をくれた人もいるから、お礼の手紙を書いたけど、嘘は書かないでください、と抗議もした。学校に、ピックをもってくる子はいない。

きっと、ゴミ拾いしながら、学校に来ている、ということを、端的に書きたかったのだろうけれど、ゴミ拾いをしたら、ものすごく臭くなる。そのままどこかへ行くなんて、できない。体を洗って着替えることができないなら学校へは行かないのだ。カギ型の鉄のピックなんて、そのまま凶器にもなってしまいそうなものを、教室にもちこむなんてことも、ありえない。

きっと、カメラマンは「問題」は見たかもしれないけれど、「人間」は見なかったのだ。子どもたちの気持ちも。



連休の間、町内会と老人会で、敬老の日の催し物などあって、パパは大忙し、朝から晩まで呼ばれて酒飲んでいた。かと思うと、敬老の会には元気で来ていたおじいさんが、翌日突然倒れて、救急車で運ばれたり。

私は風邪をひいたらしい。喉が痛い、鼻づまり、鼻水、くしゃみ。頭痛、ついでに視界もかすんでぼんやりしていたが、休みで退屈なちびさん、一日じゅう、ママ、ママ、ママ、ママ、まとわりついてくる。
うるさい、だまれ、って言ったら、「ぼくはママとおはなししたいの。だから、うるさいっていわないで。だまれ、もいわないで」と、きっちり反論してくるのが、見事で泣けた。

連休終わって、静かな昼間。