ジュリアン

数年間、パアララン・パンタオで、一番安い給料で働いていたのは、レティ先生をのぞけば、ジュリアンだった。

レティ先生は、教師やスタッフの給料を工面しなければならない側で、学校が開校した20年前から、無給で子どもたちを教えてきた。学校が2校に増えて、ようやく交通費だけ受け取ることにしたのだが、基本的には今も無給。(生活は、息子たちが支えているだろう)

(以前高校を卒業して教師をしたジェーンが、また働きたいとやってきたときに、レティ先生は、彼女の教師としての力量不足を考え、断ったのだが、その理由に「私の教えているクラスは給料がないんだよ」と言ったことがあった。でも、それから数年後には、シャイな女の子もたくましいおかあさんになり、今ジェーンは、二番目に高い給料で、先生をしている)

小さい頃、両親が離婚し、兄は父が、妹は母が連れていって、彼はゴミ山の麓の祖父母に預けられた。祖父母が死んでみなし子になった彼を、ひきとって育てたのが、隣に住んでいたジェーンの一家だった。
ゴミ山で働きながら高校を卒業し、パアララン・パンタオからの奨学金で、カレッジにすすんだ。その間も毎日、学校にやってきて、生徒たちの朝食をつくったり、給食の買い出しをしたり、大工仕事、畑仕事、あらゆる雑用をしていた。
卒業して、就職が決まらずにいる間、パアララン・パンタオで、レティ先生を助けて働きつづけた。教師ではなくスタッフとして、一番安い給料だったが、誰よりも一番楽しそうに働いているのは彼だった。給食の調理も皿洗いも、本当になんでもしていた。たぶん給料がまったくなくても、彼は楽しそうに働いていただろう。
この学校から、自分の人生がはじまったことに、とても感謝している、と言った。
二年前、彼は企業に就職した。

『中国の赤い星』読みながら、飢餓と貧困と文盲の土地から生まれた、若い共産党員たちのなかに、たくさんのジュリアンたちがいただろう、と思った。最初の、清らかな、喜び。

あの日々の、ジュリアンの笑顔に出会えたのは、人生で幸福なことのひとつだと思っている。彼が10歳のころ、パアララン・パンタオに通っていたころにかいた絵を、持っている。