陸軍桟橋(10月5日広島 その2)

港へ行く。皆実町から宇品通りあたりは、学生のころ、友人たちの下宿がたくさんあったところで(大学が移転してからは、すっかり変わってしまったが)深夜に自転車をこいで、あっちの下宿からこっちの下宿へと、遊びまわっていたところだ。港のあたり、さらに山ひとつ越えて灯台のあたり。
大学の最初の年、母危篤の電話の度に、一時期毎週のように、朝一番の船に乗るために、未明に自転車を走らせた道でもある。

絶対に家を出る、四国を出る、何がなんでも、海の外に出る、とそれだけ心に決めて受験勉強していた。今出ていかなければ、一生この町を出てゆけまいと思い、それが17歳ぐらいの私にはものすごく怖ろしかったのだが、瀬戸内海をここまで渡ったぐらいで、力尽きた。大学に籍はあったが、講義に出る元気は残ってなかった。

帰省の度に、かれこれ100回ほどは、ここから船に乗り、ここに戻ってきてしている。凪いだ海。凪いだ海しか航行していないはずだが、記憶のなかではときどきは荒れた海だ。故郷との関係はそんなに穏やかなものでもなかったのだが、気がつけば、家、も崩壊していて、いつからか、家族に会うというのは、「家族」という物語が崩壊したのちの残党を、訪ね歩くような気持ちだ。

昨日の朝はくもり、途中から雨ぱらぱら。母が死んだ日の海に似ていた。

10年間、私が広島を離れていた間に、港はすっかり様変わりした。新しいターミナルができたし、釜山行のフェリーが出るようになった。
港の三角塔のところに、近藤芳美の歌碑ができたことなど、今までまったく知らなかった。歌会で、みんなで行く、ということがなければ、まだ数年は、知らないままでいただろう。

「陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ」

陸軍桟橋であったことは、知っていた。アジア史の授業で、小林文男先生が、広島の戦争責任について、怒りまくって抗議していた。先生のお兄さんが戦争で中国に行ったのだ。その怒りがあるから、先生ははるばる北海道から広島の大学に移ってきたのだと後で知った。たぶん、私たちはその最初の年の学生だった。広島の加害を見つめる、というまなざしはまだなかった頃、タブーだった頃に、
「広島は侵略の拠点だったんです。下関の港は民間人が使った。広島の港は軍人が使った。日本兵はここから、大陸へ向かったんです。ここから侵略の軍隊が出て行ったんですよ。」
先生の授業のなんと鮮烈だったこと。
中国にも連れていってもらったのに、東京から広島に戻ってきたあと、被爆語り部の方との出会いが契機で、先生にお手紙する機会もあり、体調回復したらお会いしましょうと言ってもらったのに、そのまま亡くなられてしまった。

短歌を書かない友人が、近藤芳美、という歌人を大好きで、それで、その友人に、去年会ったときかな、「かずみさんは、近藤さんがいなかったら、新人賞もらってないかもしれないよ」と言われた。短歌研究の新人賞をもらったときの、選者の先生のひとりだった。「近藤さんがいちばん好意をもって正確に評価してくれていたよ」と、本人も覚えていないことを記憶してくれていた。

白状するけれど、あのとき、新人賞の選評、何が書いてあるかわからなくて、怯えた。同時受賞の尾崎まゆみさんの短歌が、やっぱりわからなくて怯えた。全然わからない世界にきてしまった、というあのとまどいは、なんていえばいいか。短歌に対するあこがれの一方で、激しいコンプレックスを抱えていて、私生活上の悪夢もあって、あのころのことは、思い出すのがこわいほどつらい。ので、恩も何もわきまえず、まるごと記憶の底に沈めていたのでしたが。

歳月というのは不思議で、十年ほどもすぎると、昔わからなかった言葉が、すこしはわかる。(たぶん、脳の不備を、経験が補ったのだが)短歌を読むことにすこし耐えられるようになった。短歌について話す、ひとの言葉が、少しは理解できる。ので、結社とか、歌会とか、に、すこし耐えられる。面白い、とも思える。
それで、こうして歌碑の前にいる。お会いしたことがあるかもしれないけれど、覚えていないんだけれど、おそらくまぎれなく、私の人生に関わりのあった先生の、歌碑。

加藤治郎さんが献花されたのだけれど、その背中をみながら、私はこの光景をずっと記憶することになるだろうな、と思った。
風が吹いていて、いろんな光景が流れ込んでくるようで、そのあとも次から次へと、ほんとにいろんなことを思い出した。


午後からの、加藤さんの講演はとてもよかった。「師弟」という言葉が心に残った。師弟関係というのは、人間だけにある関係なのだと思う。韓国には「師の日」だか「師弟の日」だか、師恩を思う日、というのがあるそうだ。
NHKの人形劇の三国志の人形などをつくった、人形作家の川本喜八郎さんに、お話をうかがったことがあって、そのときに、師であるチェコの有名な人形作家のことを、本当に大事に語られるのがとても印象的だったのを、ふと思い出したりした。
敬愛できる人に出会える、ということがなければ、人生ははじまらない、ということは、たしかなことだと思う。