記憶をば継げ(10月5日広島 その3)

歌会を途中で抜けて、ビデオ上映会に行く。


「フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ・プロジェクト上映会 in Hiroshima!」

──戦争を体験した元日本兵とフィリピンの人たちの証言を、ビデオ制作者のBridge for Peace代表 神直子さんの解説とともにお聞きください


昼間準備に立ち寄って、パアララン・パンタオ支援のリサイクルバッグやポストカードなど置かせてもらった。ビデオ上映は終わっていたが、40人あまり入場者があったそうで、大成功ではないだろうか。それぞれ異なる、でもどこかつながる思いをもった人たちが、とてもいい感じで、出会って、いい会になったような気がする。って、傍から見てただけだけど。
着いたのはちょうど懇談会がはじまるところで、20人余りいたかな。フィリピンに住んで植林をしている大場さんが帰国しているというので会えるかと思ったけど、いなかった。彼を支援している小西夫妻が来ていた。フィリピンに留学中にパアララン・パンタオに通ってくれた学生が、卒業して就職して広島にいるとかで、再会できたのも嬉しかった。若いフィリピン人一家もいた。

20代から80代まで、それぞれ、フィリピンや戦争との関わりなど話していたのだが、凄い話を聞いた。

フィリピンに暮らしていたという人の話。フィリピンの遊園地みたいなところのお化け屋敷には、日本兵が日本刀をもって立っているお化けがいる。フランケンシュタインのできそこないみたいなお化けは、だれもこわがらないが、日本兵のお化けは、みんな悲鳴をあげていた。

小西さんの奥さんは、お父さんが戦争でジャワに行った。幸い生きて帰ったが、酔っぱらうと、これからは女も戦争にいく時代になるから、ゲートルの巻き方くらい知っておけ、と、小学生の娘に、ゲートルの巻き方を教えたんだそうだ。「あれは、難しいんですよねえ」。戦争のPTSDに苦しんだひとりだったのだろう。

小西ご夫妻は、大場さんが取り組み始めたルソンの植林を支援しているが、その地域には、激戦地だったバレテ峠がある。それで遺族会との交流もあるのだが、戦争のころ、そこはジャングルだった。いまは一面のはげ山だ。森に木がなくなった最初の原因は戦争。アメリカ軍は空からガソリンをまいて山を焼き、ブルドーザーで道をつくって攻めてきた。道ができたので、戦後、焼畑農業が、奥地までひろがり、60年代からは森林伐採がはじまって、木がなくなった。伐採した木の輸出先は日本だった。山に木がなくなって、災害がひどい。バレテ峠には戦碑もあるが、台風で流されそうになっていた。子どもたちは山というのは草地だと思っている。木のある山を知らない。毎日の薪を拾うのにも、遠くまで木切れを探しに行かなければならない。

呉から84歳のおじいさんが来ていて、「南方戦線では50万人が死んだが、人肉を食うということが、いちばん起こったのがフィリピンだった」と言った。「最初はフィリピン人を襲って食った。フィリピン人が自衛するようになると、今度は日本軍同士が殺しあって食った。近くを別の部隊が通ると襲って殺しあったのだ。そんなことは、教科書に書いてないが。」
「それから、これは戦後、私が先輩から聞いた話だが、絶対に誰にも言うなと約束させられて聞いた。約束から60年が過ぎて、もう時効だろうから話します。中国戦線で、あるところに女学校があった。600人の女学生がいた。そこを、3000人の日本の軍隊が占領した。まわりを取り囲んで、なかからも出れない、外からも入れないようにして、上官が言った。みんな御苦労だった。これから慰労会をしよう。これから3日間、この女たちを、自由に扱っていい。そのかわり、3日後にはひとりも生かしておくな。大きな穴を掘って埋めておけ。その通りにしたのだ。」
痩せたお爺さんが、背筋を伸ばして、淡々と語るのだが、無音の慟哭というのがあるなと思った。
「戦争は人間をキチガイにする。絶対に戦争をしてはいかん。あの時代の日本人はキチガイだった。」
吐き捨てるように言った。

与えられる知識だけが知識ではない。なぜ戦争をしたのか、なぜ原爆が落とされたか、真実はタブーを破らないと見えてこない。それが自由になるということです。タブーを破るとは、人に会っていく、ということだよ、と、どこかの先生だろうか、若い人に語りかける人もいた。

終わったあと、売れ残り商品等を抱えて、今度は歌会の懇親会へ。
リサイクルバッグ等、買ってくれたみなさま、ありがとうございます。
懇親会のお店の従業員の方にまで買ってもらって、かれこれ4300円、寄付とさせていだきます。ぺこり。


呉のおじいさんの話、600人の女学生を犯して殺して埋めたという話も、本当はひとつひとつ、検証していかなければならないんだろうけれど、とりあえず私にできるのは、記憶すること、ぐらいしかない。ので、書いておきます。
夜、パパにその話をしたら、私たちうどん屋にいたのだが、パパは気分が悪くなったみたいで、青い顔をして、そのまま、うどんが食えなくなってしまった。戦争、という言葉にちびさんが反応して「ママ、せんそうになったら、げんばくドームのうえに、さんかくのばくだんがおちるのよ」と、これも泣きそうになってるし。(しかも現在形だし)。
うどんがもったいないが、私もさんざん飲み食いしたあとなので、食えない。

「1000年、中国に謝りつづけないとな。そういう話だよな」と、パパが言った。600人の女の子を犯して殺して埋めて、しかも黙って、口を拭っている、という、「とんでもない卑怯さ」が、えらく生々しく、許しがたく、感じられたらしい。
韓国には「恨五百年」という言葉もあることだし、1000年ぐらい罵られるのは、まあ、しょうがないよ。