柩の木(10月5日広島 その4)

外に出ると金木犀のいいにおいがする。
このにおいは、十代のはじめ頃の記憶と結びついている。
13歳くらいのセーラー服の自分が、いまも故郷の夕暮れの空のあたりをずっと歩きつづけているんじゃないかと思う。

桂花(金木犀)が北京市の花だと教えてくれたのは小林先生で、亡くなる前年にいただいた葉書が、金木犀のころだった。

学生のとき、中国につれて行ってもらった。上海の最後の夜に、私たちの旅のお世話をしてくれた向こうの方たちとの答礼宴で小林先生がした挨拶のことを、思い出した。
「国際人というのは、外国語がしゃべれるというようなことではない。日本人なら日本をよく知っているのが国際人だ」というような内容だったが、それにはむろん、日本が戦争で何をしたかを知っておく、ということも含まれていただろう。
そのあと、ずっと同行してくれた中国共産党青年部の幹部の人が、挨拶した。「私は祖父母を日本軍に殺された、しかし、その恨みを乗り越えて中日友好に尽くしたい」と言った。

それからまた、思いだした。
1991年に短歌研究の新人賞をもらったとき、授賞式で、菱川善夫先生がされた挨拶の内容は、戦争と文学についての、ポーランド人の問いかけの言葉だった。(同様の内容が、「短歌四季」93年夏号に書かれているので、引用します)
ワルシャワ大学教授、ミコワイ・メラノヴィッチは、日本の文学には、他国に対しておこなった残虐な行為のために、平凡な一市民が、どれほど苦しんだのか、それを掘りさげる文学がない。「野火」をはじめ、自分がいかに危機にさらされたか、わが身の危険を訴える文学はあるが、自分がおこなった残虐な行為のために苦しみつづける、という人間がなぜ登場しないのか、と語った。「えたいの知れない態度で責任をあいまいにしている。何というかくれた力が作用していることか。それでは戦争は台風と同じものになってしまう」と迫った言葉は、鋭く私の耳を突き刺した」

ちょうどそのころ、ポーランドの戦争文学を読んでいたので(「パサジェルカ(女船客)」だったと思う)そのときの先生の話はとてもよく覚えている。というか、ほとんどそれしか覚えていない。
そのあと、先生と話したときに、私の伯父たちの話を聞いてもらうことになったのだが、なぜそういうなりゆきになったのか、思いだした、「柩の木、というのは何か」と聞かれたのだった。(「やすみなく地上の冬を育ちゆく木々ありわたしの柩の木あり」という一首が、私の受賞作のなかにあった)
母が死ぬ数日前に、病院の廊下で、久しぶりにあった3人の伯父が「戦争で支那に行ったときのことよ」と突然話し始めた。3人とも戦争で中国に行ったのだが、口々に次のようなことを言った。「支那には木が少ない。だが、どの家にも何本かの木が植わっとる。わしらはその木を切り倒しながら行った。煮炊きするんでもなんでも、木はいろうが。ところが木を伐ろうとすると家の人が泣くんよの。ほかのものならなんでもあげる。木だけは伐らんでくれ。なんでかいうたら、木はその家の者が死んだときに、柩をつくるために植えてあるんやが。かわいそうやったが、わしらも木はいるけんなあ。戦争やけん、仕方なかった」
まあ、そのような話をすると、菱川先生、「いい話を聞かせてもらった。ありがとう」と頭をさげて言われたので、私はたまげた。ほんとうに驚いた。何か自分でもわからない大事なことを、とても正しく聞いてもらっているという、あれは感動だった。

10月5日のビデオ上映会の内容は、(私はまだ見ていないが)、まさに「他国に対しておこなった残虐な行為のために、平凡な一市民が、どれほど苦しんだのか」という証言を記録したものだ。
神(じん)直子さんというまだ若い女の子が、ひとりで、フィリピンの戦争被害者と、日本の元兵士の間を、それぞれの証言を抱えて行き来している。戦争被害者が元兵士の苦しみを知り、元兵士が、被害者の苦しみを知り、また自分がしたことを率直に告白していくことは、互いにとって、癒しの過程であるにちがいなく、彼女もまたそれを確信して活動を続けているのだろう。

菱川先生の文章は次のように続く。「日本人が犯した罪を、みずからの罪として自覚しながら、しかしそれが、たんに個人的懺悔や民族的贖罪といった方向にだけ向かうのではなく、痛みの克服が、同時に新たな全体性の回復という喜びに向かうような、生産的な視点を模索することが、これからの日本文学の課題として要求されてこなければならないだろう。それを模索するプロセスが、そのまま文学となるような作品が、短歌の世界にも生まれてほしい。」(「短歌四季」93年夏号)

短歌の世界とか、文学とか云々は、さておいて、まさえちゃん、にゃおこさんつながりで、広島で行うことのできた5日の上映会は「痛みの克服が、同時に新たな全体性の回復という喜びに向かうような、生産的な視点」を予感させるものだったろうと思います。(たぶん私も近いうちに、ビデオみることができると思う)

いままで出会ってきたいろんな光景が、1日のなかに流れ込んできたような、ふしぎな忘れ難い日になりました。

たぶん1日で50人ぐらいの人に会っているんだけれど、みなさまに、本当にありがとうございます。