靴が消えてしまう世界について(10月5日広島 その5)

「ママはまだこどもだよねえ」と、4歳の息子に言われた。
ぼくとママはなかよしで、おともだちで、だからいっしょにようちえんにいってあそぶの、というのだが。
甥っ子が5歳くらいのときに、かずみちゃんといっしょにようちえんにいくの、と言いはったことを思い出した。思えば、子どもに大人扱いしてもらったことはこれまでもないが、自分の息子に「こどもだよねえ」と言われると、毎朝弁当つくったり、パンツにした▲の後始末したり、一生懸命母親のふりして、幼稚園や療育センターに行っているのは、なんなんだろうと、なんか気が抜けてしまったな。

だんだん細かくなっていく絵。


息子は私に似ている。異様に似ている。記憶力は異常によろしくて、それは私に似ていないが、世の中のわからなさ加減は、よく似ている。
靴がなくなっていた。小学校の最初の年。帰ろうとするとげた箱に靴がない。それで泣きそうな気持で探すのだが、そのときの理解はこうである。放課後には、靴が消える世界と靴が消えない世界があって、本当は靴の消えない世界にいなくちゃいけないのに、なぜかときどき靴の消える世界に迷い込む。どこで迷い込んでしまうのか、一生懸命考えるんだけど、わからない。
靴は、植え込みのなかとか、ゴミ箱からとか、出てきたけど。
靴が消える世界の謎は、謎のまま残っていた。

もしかしたら、だれかが隠したのかもしれない、と思いついたのは、ずーっとあと、中学生かもっとあとになってからだった。靴が消えていたことと、同じころ、「ばか」とか「うすのろ」とか言われていたことと、給食の食べ残しを机の引き出しにつっこまれていたことと、田んぼにつきおとされたこと、は、もしかしたら、関係があるんだろうか。もしかしたら、それは誰かにいじわるされていた、ということなんだろうか。と気づいてはみたが、小学一年のころのクラスメートの名前なんて私はもう思い出せない。

靴が消える世界、が気になっているのは、そのような世界の認識の仕方、は、他者と出会ってゆかない仕組みだということに、今さら気づいたからだ。
たぶんそれは、「目に見えないものの把握が苦手」という自閉症の特徴と関わるかもしれず、誰かが隠したところを見たわけでもないので、私に理解できるのは、いまある、靴が消えてしまっている、という光景でしかなく、それはそれで受け入れるしかないのだった。

目に見えないものの最たるものは、感情である。自分の感情の把握も苦手なんだが、他人の感情なんて、理解できるはずがない。ところが世の中はとても感情的に動いていて、それはもう、どこから何がやってくるかさっぱりわからないのが、いつもとても困った。他者と出会ってゆかないような認識のしかたをしながら、しかし現実には、ひとのなかで生きていて、いろんな関係を結んでいるんである。
かなりおそろしい。色恋沙汰なんか、かるーく地獄の扉がひらく。
そのかなりおそろしい世界を、他の人たちはどうやって生きているのだろうと、不思議でならなかったが、そっかあ、自分の側の脳機能の問題であったかと、息子を見てようやく理解している。

謎はたくさんあるのだ。いくつもの人間関係が、たぶん私のせいで、でも私にはついにわからない理由で壊れている。つまりそれは、感情的な理由なので、理解が難しいのだと思う。わからないからといって、なぜ、どうしてと聞いても、返って逆上させるだけだということぐらいは、学習したというか思い知らされてきたが、小学校のときに仲のよかった友だちにある日口をきいてもらえなくなったのはなぜか、ということからはじまって、たぶん、感情を傷つけるとか、傷つけられるということを、してきているだろうと思うんだけれど、それが何かわかんないまんま。最近はもう、考えるのが面倒くさくなってきたけど。

いくつか自分を許せない光景もあるにはある。小学校のとき、いつも一緒に遊んでいた女の子が、クラスでいじめにあっているということを、私だけが知らなかった。まったく気づいてなかった。
また別のとき、クラスの女の子たちが何人か、放課後ひとりの男の子を椅子にくくりつけて、ズボンを脱がしていた。それが何の光景なのか、わからないまま、私は黙ってみていた。そうして図書館で借りた本を読んでいた。
その場にある感情を察知するということができないので、それがいじめであるとか、どんな光景なのかを、把握できないでいたのだ。

さてそれで、靴が消えてしまう世界。歌会の詠草で出したのは酷評されてすがすがしかったけれど、それはまた考えるとして、ごく個人的には、人間とか人生とかを理解していくための、象徴的な光景のひとつを、見つけたような気はする。

他者と出会って行かない仕組みのなかにいたこと、でもたぶんそうでなければ、ものを書こうだなんて、思わなかったな。


靴は大事。使い古しの靴や体育館シューズ、フィリピンの山岳地帯で、売れるそうです。大場さんたちは、寄付してもらったシューズを売って、それを苗木代にあてて、植林をしています。最近は学校ぐるみで体育館シューズの寄付をしてくれるところも出てきたみたい。日本の子どものためにもいい取り組みと思います。
うちのちびさんのはけなくなった靴も、貰ってもらう。その前に小西さんのお孫さんが使ってくれるかもしれない。運動靴、体育館シューズ、ください。ただし、きれいに洗って、いくらか送料もつけてもらえるとありがたいです。(この送料の工面が大変なんだよな)