「遠い山なみの光」

副鼻腔炎

蓄膿症のことですね。
これがあると、風邪をひきやすい。ええ、たしかによく風邪をひく子です。中耳炎にもなりやすい。
昨日の診察も、まだ何もはじまらないうちから大泣き。しかし耳鼻科は、どの子もキョーフなのだろうなあ、ずーっと子どもの泣き声と悲鳴と響いている。
当分、毎日病院に通う必要があるし、副鼻腔炎の治療も時間がかかるし、近くの病院に紹介状を書きますから。
ということで、しーばらく病院通いだわ。毎日薬を飲ませるのが、あー、しんどい。薬のまないと耳がなくなるんだってば。

夜、幼稚園の先生から電話あって、今日はピクニックらしい。熱もなくて平気そうだけど、両耳切開したことではあるし、休ませようかと思ったけれど、ちびさん、行くというので、準備する。さっそくカレンダーに「ピクニック」とか書きこんでいた。今朝は、元気で(?)ケロロのリュック背負って行きました。

ピクニックのこと、今回はお便りはもたさず、子どもたちに自分の口で親に説明するようにさせたのらしい。伝言ゲームのように。けれど、子どもがもしそう言っても、ほんとにそうかしら、と、まず疑ってしまうだろうなあ、と思った。一緒にバスに乗るY君のお母さんは、信じられなくて、クラスのお母さんに電話して確かめたらしい。

カレンダーには、ちびさんの字でいろんなことが書き込まれている。ぼくのたんじょうび、パパのたんじょうび、おんがくきょうしつ、ピクニック、おんがくきょうしつやすみ(このあたりまではほんとう)、ようちえんやすみ(ほんとはやすみじゃない)
12月にも書きこんでいる。きょうと(行く予定はない)、とうきょう(もちろん行く予定はない。しかも年末12月31日に。まてよ、数日前までは、年末は、きょうとのホテルで雪合戦をする、というシナリオじゃなかったっけ。いつのまに予定変更したんだろう。いやいや、どちらにしても、そんな予定はないのだ!!)

まったく。なにをどんなふうにどうやって、説明すればいいのか。


カズオ・イシグロの「遠い山なみの光」(早川文庫)読了。いい小説だった。とてもいい。
女主人公は、イギリスに住む日本人。娘の自殺に直面して、昔、その娘を妊娠していたころのこと、被爆後の、戦後の長崎での暮らしに思いをはせる。日本人の夫(その後別れたらしい)と義父のこと。近所に越してきた母娘(佐知子と万里子)のこと。アメリカ人の恋人がいるらしい佐知子と、その娘の万里子が、ことのほか印象的。

万里子みたいな幼馴染みがいたことを思い出す。なつかしくて泣きそうだ。とても頭がよくて、孤独感の強い一歳上の女の子だった。両親がいなくて、おばあさんとまだ独身の叔父叔母と暮らしていた。絵がとても上手で、かんしゃくもちで、叔母さんとの喧嘩のすさまじさは、近所でも評判だった。私は彼女と遊ぶのが面白かった。すこしこわいような、とっつきにくい感じの子で、なぜ私と遊んでくれたかわからない。部屋のなかで遊ぶことが多かったが、ときどき裏山あたりをずーっと一緒に歩いていたりした。私のほかに友だちはいないようだった。私のほうも似たようなものだった。
彼女が中学生になって、通学の方向が変わったころから顔をあわせることもなくなり、いつのまにか引っ越していなくなっていた。中学校で彼女は不登校になったらしい。一年遅れで高校に進学して、同学年に彼女の姿を見たときはびっくりしたんだけれども、言葉も交わせないまま、一年の三学期に、彼女はもういなくなった。退学したのだ。その後のことを教師も誰も知らない。
子どものころに、一番影響を受けた友だち。夏休みに毎日プールに一緒にいった。市立図書館にも連れていってくれた。私の夏休みの宿題もしてくれた。私が家出したときは、ごはんを食べさせてくれた。
彼女を二度目に、とうとう見失ってしまったときの喪失感。夢のなかに出てきた彼女と別れたときの、もう一緒に歩いてくれる人はいないのだという、あの心細さ。

そんなことを思い出した。