新彗星2号

「新彗星」2号、届く。
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ああ、きれいな表紙だなあ。
まだ全部読んでないけど、とりあえず、自分が書いた原稿のところに、間違いをみつけた。
「死と再生のこおろぎ」の文中、38ページ上の段、小松川女子高生殺害事件の年号が、(1985年)となっていますが(1958年)の誤り。漢数字を算用数字に変換するときのミスと思いますが、ごめんなさい、読んでくださるかた、頭のなかで訂正お願いいたします。

その間違いを見つけて、くらっとしたのは、私がその事件について読みふけっていた18歳だか19歳のころ、その事件というのは、当時から数えて25年ほども前の事件だったけど、いまや、1985年という年がすでに、20年以上も前なのだと、気づいてしまったからでした。
時間の感覚が。なんだか。


以下、超個人的雑感。

特集は「修辞の死/再生をめぐって」それから、リアルということについて、何か書くということで、書いたのでした。死と再生、についてはいろいろ考えた、リアル、の問題も苦しんできた。だから何か書けるだろう、と思って、書き終わって、はたと気づいた。修辞、ということについて、私は考えたことがない。それ以前に、修辞、という言葉が、翻訳されかねている外国語のように、わからない。自分の内側に入ってこない。……おちこんだ。
それで夏以降、修辞ってなんだ、修辞ってなんだ、と思いつづけてきて、ふと思いいたったのは、昔、野宿者のおじさんから声をかけられた、「工夫して生きんと」という言葉。おお、もしかしたら、修辞、というのは、工夫、と訳せるだろうか。
とはいえ、工夫。それもよくわからんのだった。

去年療育センターの発達障害児のクラスに通っていた子どもが、みんなと一緒にお遊戯しない。それがある日、みんなが音楽にあわせて、しまうま、になったとき、彼も突然参加して、しまうまをした。喜んだのもつかのま、しまうまの次に、みんなは、音楽にあわせて、うさぎ、とか、かめ、とか、どんぐり、とか、していくのに、うちの子だけ、しまうまの次には、スケート、その次は、お昼ごはんをたべているところ、と違うことをする。それは彼が好きな絵本のしまうまの絵があるのと同じページに、スケートやお昼ごはんの絵があるからで、まわりが何をしているかは関係がなく(理解できないのだ。たまたま、しまうまがシンクロしただけで)彼は彼の文脈をまわりつづけていく。

まるで自分を見ているようでめまいがしたが、あのめまいを思い出す。
まあいいや。それぞれがそれぞれの文脈をたどりつつ、同じ場にいることがゆるされるのが、文芸という場だと思うし。人生だし。

修辞……釈迦が経典のなかで、「無に非ず、有に非ず」と以下「非ず、非ず」と、丸でもなく四角でもなく、と、30いくつだかの「非ず」をならべて表現しようとしたこと、は、「仏」について、それ以外の表現がありえなかったからだと思う。
と誰かが言っていたことを思い出す。ああ、これは、ごくシンプルな「修辞」のイメージになりそうだ。


さて読もうっと。自分の文脈以外の文脈を理解するという訓練が必要なのは、私も息子も一緒なんだが、これが、いいかげん年とっても、やっぱりむずかしいのでした。年とるほどむずかしい、のか。