「カイエ」覚書

朝、読書していたら、ちびさん、折り紙で、のりまきとサンドイッチつくってもってきてくれた。ほめてやったら、夜には、のりまきが何本も増えて、空き箱のお重に詰められていた。



この数日、ヴェイユの「カイエ」読み返していて、ふいに気づいたんだけど、たとえば「重力と恩寵」の「と」の字は、仏教思想の「即」と同じだなと思った。生死即涅槃、煩悩即菩提、とかの。

ああ、この「即」のイメージが、天秤とか、梃子なんだなあと。
「不幸」が、そのまま恩寵の条件として蘇ってくるところが、すごいと思う。

重力と恩寵を結ぶ「と」、それもまた恩寵だろう。

「カイエ」にはウパニシャドなど、東洋思想の引用がたくさんあって、
宮沢賢治あたりにも繋がってくるような気がする。
ヴェイユの「奴隷」と、賢治の「デクノボー」。

「かれはなにもしていないのである。たとえ、不幸な人のところまで行きつくために、裸足で釘の上を歩くとしても、その場合当然苦しむことになるが、なにもしていないのである。なぜなら、かれはひとりの奴隷にすぎないのだから」(カイエ)

キリスト教がこの上な偉大なのは、苦しみに対して超自然的な治療薬を求めるところにはなく、苦しみの超自然的な利用を求めるところにある」(カイエ)

まともな宗教であれば、そうであるべきだと思う。このくだりは宗教批判の原理になりそう。

「不幸」に毒される、ということもある。現実はそちらのほうが多いかもしれない。だから、不幸な人間は蔑まれる。むろん、そうでなくても蔑まれる。蔑むほうも無惨だが。
「即」が機能していないのだ。天秤、あるいは梃子が。

ヴェイユの思索は、この「即」の一点に向けられていると思う。
重力と恩寵」の「と」。