路地のなまけもの

葉書をもらった。

「遅まきながら世の中にはすばらしい世界ってないんだなということがわかって、つまり必ず泥棒はいるしぼくはなまけるだろうしと思って、でもすばらしい瞬間っていうのはあるんだろうなと、路地を読んで思い出しました。」

作品集「christmas mountain わたしたちの路地」に寄せてもらった感想で、ありがたい限りなのですが、それはそれとして、「ぼくはなまけるだろうし」という言葉を、何か泣きたいほど慕わしくおもった。

なまけもの。いたのである。どんな路地にも。

まじめな大人は忙しいので遊んでくれない。なまけものたちに相手してもらって、私は子ども時代を生きのびてきた。ラーメンのつくりかたはどんな事情でかしばらくうちに居候していたお兄さんに教えてもらった。
都会からそれなりに挫折して帰ってきたうちの兄もそうだったが、20代や30代のいい若い者が、昼まで寝ていて、行きつけの喫茶店にお茶飲みにいって、時間つぶして帰ってくる。
もっとも時間はあるので、頼まれればなんでもする。近所の障害児とか、貧困家庭のために、役所とか議員とかに話をしたり、田舎のほうの施設の見学のために、車にのせてったり、病人の付添とか、献身的というのとも違う、ふつうに人助けしていた。
なまけものでいられたから、できたことだ。ごくまじめに、子どもの私の話相手になってくれた。車であちこち連れていってもらった。働いてなくて金がないときはダメだが、金のあるときは、好きなだけ本を買わせてくれたりもした。パチンコの景品ももらった。
むろん、なまけものがどこかで踏み外して博打で借金抱えて、ひどい目に会うというなりゆきもあり得るが、それはそれだ。

思うに、あのなまけものの兄たちがいなかったら、家でも学校でも、私は死ぬほど孤独だったろう。

個人的な好みを言えば、忙しく働いて、お金があるよりは、貧乏でもなまけていたい。

というか、私が、なまけながらでないと生きられないのだ。
学費が払えなくて休学したときに、学費を稼ごうと、3つのバイトをかけもちで、一日12時間平均2か月働いたら、倒れた。
卒業してフルタイムの仕事をしたが、一年半で限界だった。ごく楽な仕事だったのに。やめた日、生活の見通しもなかったけど、夏草と青空が美しくて美しくて。
東京は、地下鉄と電車と雑踏が苦しくて、一日都内に出ると、次の日はたっぷり一日寝込んだ。休み休みの仕事で食いつないでいたんだけど、ほんとのところ、毎日、まじめに働き続ける、ということが、どうすればできるのか、私はいまもわからない。でも、休み休みのバイトなら、同じ職場で、7年でも10年でも働きつづけてこれた。

なまけものだから、貧乏は仕方ない。(まっとうに生きていないだろう、という後ろめたさは、心に深くこびりついて、とれそうもない)でもなまけものでも貧乏でも、蔑まれたりしない、貧困(基本的人権とか生存権とかが奪われるような)に陥らない社会であってほしいと思う。なまけものが蔑まれたり生きられない世の中というのは、本当は、なまけものでない人にとっても、生きづらい世の中じゃないだろうか。

気づけば、まわりはみんな大人になって、忙しそうで、こちらも、忙しい人を煩わせてはいけないだろうと、声をかけることもしなくなっているのだが、私自身は貧乏でいいから忙しくない人になりたい。

他の人のために心を向ける余裕があるくらいには、私は人生をなまけていたい。考えてみれば、自分が人生で追い詰められたときに、転がり込んで、すこしばかりの安らぎ(でも何かとても大事な)を与えてもらってきたのは、たとえば失業中のなまけものたちのところだった。
あるいはゴミの山であるとか。

くつろいだのは、なまけものたちのいる路地だった。
恩があるのだ。

なまけもののいない世の中に住みたくない。
私自身が生きられない。