愛もなくやさしさもない地上に

友人からのメール。ぺったん。

「とりたてて「成功者」と言える程ではない人々は、怯えている。自分の番が来るのを。そして、不幸な人々には、不幸になる理由があったんだと納得して安心する。理由とは、自分たちの勤勉さであったり、他人の怠惰であったりするが、繰り返し暗唱しなければならないほど、忘れやすい。
弱い人たちが、さらに弱い人たちを石で打つ、神話的な世界が現実になっている。」


フィリピン独立の父、ホセ・リサールの「ノリ・メ・タンヘレ」「エル・フィリズスティリスモ」この2冊は、凄い本だけど、絶版のままかもしれない。新訳出ないかな。私は昔、古本屋で手に入れたんだけれど、そのなかに論文が収録されていて、「フィリピン人の怠惰について」という、これは、すごく読みにくいけど、大事な内容と思う。
結論だけ言うと、フィリピン人の怠惰は民族の固有性ではなく、スペインの侵略によるさまざまな収奪の結果である。

百年以上前に書かれた、この論文がいまも生々しく感じられるのは、怠惰の傍らには、搾取があり収奪がある、という指摘が、真実だからなのだと思う。それは、ヴェイユの言う「根こぎ」の問題、植民地主義の問題にもつながってくる。日帝時代の京城が舞台の李箱の小説「翼」の、怠惰な主人公も思い出す。

なのに、世間のまなざしは、怠惰だけを云々して、搾取や収奪に目が向いていかない。

ゴミの山の学校がつぶれそうだったころ、この学校がなくなったら、ここの子どもたちはどうなるのだろうと、胸がつぶれそうだったときに、フィリピン在住の日本人にその話をしたら、「フィリピン人は怠け者だからね」とさらりと言われたのが、今も心臓にささってる。
「子どもたちは働いています」とようやくそれだけ言ったけど。(しかも、あなたみたいにクーラーのきいた部屋でなくて、ゴミ山の腐臭のなかで、たった7歳くらいで。と思ったけど。)
噴きあげるような悔しさだった。

いじめは、いじめられるほうも悪い、という話に似ているが、絶対にいじめるほうが悪いんである。いじめるほうが悪い、と言いきれない教師は悪人と思います。

権利があると知っていて、権利を云々できるのは、すでに権利を得ている人間で、本当に権利を奪われている人間は、権利があるということさえ知らない。
むかし臨時職員の身分だったときに、フルタイムで働いているんなら、雇用保険をかけてもらえる資格があるということを、私は知らなかったけれど(あとで教えてもらって交渉したけれど)、私の前にやめていった女の子たちも、みんな知らなかっただろう。かるーく、搾取だった。

不幸の不幸たるゆえんは、それが嫌われ、目を背けられるものだからだ。人は気づかなくても、不幸を軽蔑している。そうして、見捨てられることに慣れた人間は、自分を見捨てるようになる。 (というヴェイユの指摘は正しいと思う。「反貧困」にも同じ指摘があった。)

自分の不幸について、自分が悪いと、当人がそう思うのは、ある意味で当然だけれども(なしくずしに社会や他人のせいにするようになったら、それはそれで不幸なのだ)、でも他人の不幸を、自己責任とか、自業自得とか(悪人が悪事の報いとしてそうなっているというならともかく)言っていいこととは思えないし、それはもう「冷たい世間」の仲間入り、でなくて、何だろう。


 愛もなくやさしさもない地上に
 わたしの幸福は それ自体 書かれていた (ホセ・リサール)


凄い詩だ。(未翻訳の詩の一部を私が勝手に訳したの。訳が正確かどうかわかんないけど)