デクノボー

「デクノボーになりたい  私の宮沢賢治」(山折哲雄)読了。
以下、メモ。

賢治が花巻農学校時代に、斎藤宗次郎という20歳年上のキリスト者と親交があったという話が興味深かった。
斎藤宗次郎は内村鑑三の弟子で、日露戦争のころに、小学校で、徴税拒否、徴兵拒否を教えてクビになる。それから花巻の町で、新聞配達をする。
新聞を配達しながら、神に祈る。ポケットにあめ玉を入れ、もう片方には小銭を入れる。子どもたちにはあめ玉をやり、病気の人がいると、なぐさめの言葉をかけて少しの喜捨を置いて、配達の仕事を続ける。その距離一日40キロ。
そんななか賢治と出会い、毎日のように賢治の教員室をたずねて、一緒にクラシックを弾いたり童話や文学の話をしたらしい。
雨ニモマケズ」の「デクノボー」には宗次郎の生き方が反映されているのではないか。

賢治と言えば、激烈な法華経信者のイメージがあるのだが(そしてデクノボーは、不軽菩薩を想起させるが)、激烈であることは閉鎖的であることを意味しない。宗教に対する感受性は自由に開かれていた。子どものころは、実家の影響で親鸞に惹かれ、青年時代、カトリックプロテスタントの両方の教会に通い、東京に出て、法華経に出会い、その世界に実践的に入っていく。
それは、あれかこれか、の一神教的、排他的な宗教観ではなく、また、あれもこれもという節操のなさでもない。宗教に対する感覚の健全なつみかさねと、知性による自由な判断があった。

賢治の「なめとこ山」や「注文の多い料理店」の童話などには、狩猟民の思想がある。それは柳田国男の「山の人生」(炭焼き小屋の兄妹の話を、むかし戦慄して読んだ記憶があるが)や、さらに法隆寺の玉虫厨子の「捨身飼虎」の思想にもつながる。つまり、食うことは、食われることを覚悟して生きることである。
「共生共死」の思想。
で著者は言う。「共生」のみを叫んでも、それは人間のエゴイズムの大合唱でしかない。生きたい生きたいという生き残りの願望の叫び声。ほんとうに「共生」と謙虚に叫びつづけようと思ったら「共死」を言わなければならない。

ああたしかに。ある思想や、言葉が、あるいは愛が、信じられるか信じられないかは、「共死」の覚悟があるかないかにかかっているように思う。それは、なんとなく伝わるものだ。


昨日病院で治癒証明をもらって、ちびさん今日から幼稚園。