「カイエ」覚書についての覚書

ヴェイユに関する覚書について、友人からメールをもらった。
許可を得て、ぺったん。


☆☆

『「キリスト教がこの上な偉大なのは、苦しみに対して超自然的な治療薬を求めるところにはなく、苦しみの超自然的な利用を求めるところにある」(カイエ)
まともな宗教であれば、そうであるべきだと思う。このくだりは宗教批判の原理になりそう。 』

まったく、その通りだと思いますが、ヴェイユキリスト教のどのあたりが「苦しみの超自然的な利用を求めるところ」と理解していたか、知りたいと思います。

よく比較される例なのかも知れませんが、死んだ子供を嘆く母親の話がありますね。
 イエス・キリストは、「超自然的な力」によって蘇らせてしまう。(新約聖書)
 一方、釈迦は「芥子の種をもらって来なさい。そうすれば生き返らせてあげよう。ただし、その芥子の種は今まで1人の死人も出したことの無い家からもらって来なければいけない。」と言い、母親は全ての家をまわって、死人を出したことがない家など無いことに気づき、やっと子供の死を受け入れられるようになった。

釈迦の話を知った後では、キリストの「奇跡」も白々しく感じました。どっちが、大人の態度であるかは言うまでも無い。(文脈は知りませんが)ニーチェが「ヨーロッパ人は仏教を理解するには、成熟が足りない」というようなことを書いていましたが、至極もっとも。

 仏教はつくづく、物(仏)理学だと思う。

『「私のなかにある罪が〈われ〉と言わせるのだ。  7+8=16と言うなら私は間違っている。ある意味で7+8=16とするのは私だ。だが、7+8=15とするのは私ではない。  真なるもの、美なるもの、善なるもののすべてにわれは不在である」ヴェイユ「カイエ」1巻 』

この文脈で言えば、「真なるもの、美なるもの、善なるもののすべてにわれは不在である」ことに耐えるのが仏教なのではないでしょうか?

☆☆以上。



 ヴェイユキリスト教のどのあたりが「苦しみの超自然的な利用を求めるところ」と理解していたか。
 わかりません。引用箇所の前後に、聖書などの言葉があるでなく、私はキリスト教に関する知識がないし。

 私の印象では、それは「キリスト教」から引っ張りだされてきたというよりむしろ「慰めの源としての宗教は、真の信仰への障害である」(カイエ)というヴェイユの信仰姿勢から導かれているような気がする。

 釈迦の芥子の種の逸話は、まさに「苦しみの超自然的な利用を求める」というヴェイユの文章をあらわすもので、そうである以上、ここの文章の「キリスト教」は当然「仏教」でもよいと思う。

 「苦しみの超自然的な利用」とは、同苦・共苦と恩寵の関係として、展開されてゆくと思う。「純粋な同苦・共苦によって、いよいよ純粋な喜びを享受できるにあたいするものとならねばならない」(カイエ)

 ヴェイユには、宗教の高低浅深について、何らかの判断基準があって、ユダヤ人でありながら、ユダヤ教を退け、カトリックを信じる、という立場をとる。しかし洗礼は受けない。カトリックはことばの上でだけ普遍的(カトリック)であって、現実はそうでない、十字軍そのほか教会は歴史的に数々の過ちを犯している、神の愛は、異教徒にもひとしくあるべきであるから、などの理由で。
 おそらく、ヴェイユにとってキリスト教は、ベターであって、ベストではなかったのだろうと思う。ウパニシャドの引用そのほかを見ても。「どうすれば、キリスト教全体主義的であることなしにすべてをひたしきることができるのか」「ともかくも新しい宗教が必要なのである。まったく別のものとなるまでに、変化したキリスト教か、それとも別なものか」(超自然的認識)

 ヴェイユの、宗教への批判原理は、非常に純粋で潔癖なのだが、その純粋さが、キリスト教のもっとも良質な聖性を体現する(ミクロス・ヴェトーの研究書は、難しすぎて、再読する勇気が出てこんけど、とても大事な本と思う。ナナさん。)
 と同時に、むしろとても仏教的でもあるような、普遍的な場をつくりだしていることが、ヴェイユの宗教観の最大の魅力だと思う。

 「脱創造」(キリスト教)と「無作の三身」(仏教)の呼応。

 「真なるもの、美なるもの、善なるもののすべてにわれは不在である」ことに耐えるのが仏教なのではないでしょうか?

 たしかに。仏の異名は能忍(のうにん。よくしのぶ)というのだし。



……というようなことを考えていた。ゆうべ寒くて、骨がきしきしして、眠れなかったのだ。


 昼寝しよっ。