鑑賞と観察

「問う力 長田弘連続対談 始まりのコミュニケーション」(みすず書房)を読んでいる。

以前、旭山動物園の飼育係だった絵本作家、あべ弘士との対談で、あべが、「干渉」も「鑑賞」もしない、環境を整えて「観察」する飼育を目指した、と言うのを受けて、長田が次のように言っている。

「観察なしに空想も想像もないんですね。でも今は観察しないで、すぐに鑑賞のほうに走っちゃう。鑑賞すると、人は観察しないんです。観察は空想をうながし、想像をさそうけれども、鑑賞は鑑賞するだけで完結してしまうのです。(略)鑑賞は友情をもたらさないんです。」

本を読むことにもあてはまるかしらと思った。本を読んで楽しいときというのは、たしかに鑑賞でなく観察している。一首の短歌や、詩の数行、小説のひとつの場面とかが、生きて動くのを追いかけている。それは、自分のなかのすでに知っていたり知らなかったりするいろんな感情や経験や光景や言葉や、そういったものを呼び覚ましながら、ほんとに生きものみたいに動いていく。そうして私のなかを生きものみたいに動いた言葉だけが、私に親しく慕わしいものになる。
この本はこういうことについて書いてある、ということより、この本を読みながら、自分はこんなふうにさまよった、という物語のほうが、自分にとっては断然大事である。本を読むのは、なんというか、友だちと一緒に家出してみることに似ている。
一緒に家出して楽しい友だちもいれば、楽しくない友だちもいるのだが(むろん、自分の状態が悪くて楽しくないということもあるのだが)、楽しい友だちと家出するのは、とても楽しい。


プランターの苺が実り始めた。えらく形が悪いが。
草引きしたり、伸びすぎた枝を切ったりする。ふだん見ない、というか見ないふりをしている、家の裏の狭い通路は、こっちの方が日当たりがいいのだね。つわぶきが巨大な生きもののように生息していた。服についた草の実をとるのが大変だった。
庭のあっちこっちに生えているミツバはおひたしにして、タンポポの葉はサラダにした。