「回生」

鶴見和子歌集「回生」を読む。
脳出血で倒れてから、半世紀ぶりに歌があふれだした、というもの。

鶴見和子の「対話まんだら」を以前に読んだ。石牟礼道子の巻、中村桂子の巻を読んだかな。
内発的発展論」という言葉にとても魅かれた。
以前、ゴミの山の学校の支援をめぐって、いろんな人にいろんなことを言われたり、支援のすすめかたはどうあればいいのか、悩んでいたころに、何が正しいかわからないが「内発性でなければ正しくない」と思ったことがあって、そのあたりの気持ちにとても響いてきた。

鶴見さんが提唱した「内発的発展論」は、地域の自然や文化に根ざした多様性のある発展、異なるものが支えあう文化を展望している。対話のなかで、内発性とは、民衆の魂のなかにある力であること、それから「内発的発展」は経済成長ではなく、人間の成長を目的とする、と語っていたのが印象的だった。

歌集。病とリハビリの景色のなかに「魂深き」という言葉が出てくる。

 心身の痛苦をこえて魂深き水俣人に我も学ばん
 ふたたびの食い初め式に我念ず魂深き人に育ちゆかむと

石牟礼道子が、胎児性水俣病の子どもを「魂の深か子」と記録している。学生のころ、そのくだりを読んだとき、従姉の娘で、脳性麻痺で寝たきりで生きて死んだ子のことを思い出した。ふじこという名前だったが、子どものころに、身近にふじこがいてくれたことは、何か決定的なことだった気がする。
ふじこがいなければわからなかったことがたくさんある。
「魂深き」という言葉は、ふじこを経由して、胸に届く。

「魂深き」という言葉が出てくる場所は、たとえ不幸な場所のように見えたとしても、それ以上に、幸福、という言葉に近い、絶対的幸福、という言葉に近い気がする。

「歌は情動と理性的認識とを統一して表現するすぐれた思索の方法である」というあとがきがまた、著者らしい。

内発的発展論」も歌を詠むことも「方法」なのだ。おそらく「魂深き」存在の仕方へ向けての。

感動はとてもシンプルなところからくるなあ、と思った。



ちびさん、しりとりをはじめると長い。名詞動詞形用詞なんでもあり。思いつかなくなると、世界地図の前にすわりこんで、国の名前を漁る。たいへん粘る。ところが国の名前、アゼルバイジャン、とか、タジキスタン、とか、ん、で終わるのがけっこう多くて、ちびさん、どれだったか「ん」を踏んで、やれやれ、やっと終わった、と思ったところで、パパがいらんことを言う。
起死回生の「ンゴロンゴロ自然保護区」。
……タンザニアにあるらしい。

さてその、ンゴロンゴロ、の音が面白かったらしい。ンゴロンゴロ言いながら興奮していたが、いつのまにか、アンゴラゴラゴラ公園、になっている。アンゴラにある公園なんだと。アンゴラゴラゴラゴラ公園のもぐら、の絵をかいていた。へんなもぐら。