「この世界の片隅に」

広島にいるんだが、けっこう長く住んでるんだが、広島弁がきらい。
たぶん、18で広島に来たばかりのころに、パン屋のおじさんの広島弁の怒鳴り声がおっかなかったせいかもしれない。年配の女の人たちの広島弁の愚痴を聞くのにうんざりしたせいかもしれない。
広島にいても、人間関係は、広島出身者でない人のほうが多かったから、そんなに親しまずにきたせいかもしれない。今でも、広島弁を聞くと(日常的に聞くのだが)思わず警戒してしまう。思わず。トラウマに近いかも。
広島弁で話しているのに、親しみを感じさせてくれる人にたまに出会えるとうれしい。一方で、聞き慣れて、もうなんとも思わなくなっている人の広島弁であっても、相手の、あるいはこちらの感情がよろしくないときには、(その広島弁、やめえ)と思う。(やめえ、と思う私もすでにすこし広島弁である)。
語尾など故郷のやわらかな言葉に似ているところもあったりするのになあ。

こうの史代この世界の片隅に』の広島弁は、よかった。
前作の、映画にもなった『夕凪の街・桜の国』の広島弁もよかった。
この人のまんがを通して、自分がいま住んでいる土地の言葉との和解が、すこしできそうで、うれしい。友人の妹さんなんだけど、会ったことはないんだけど、ありがとう。

この世界の片隅に』戦争中の呉が舞台。
遊郭の女の子が主人公に言うこのセリフはすごい。

「子供でも売られてもそれなりに生きとる。誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」

もちろん、何かが足らんぐらいで、人は居場所を追われるんだけれども。追うこと、追われることを、当然と思ってはいけないし、当然にしてはいけないのだ。「何かが足らんぐらいで」。

誰でもきっと何かが足らん。足らんことを数えあげたら、絶望しか残らん。でも足らんことを数え上げるのだ。とりわけ他人の足らんことを。

うるさいわい。(と、ときどき思うのも、すでに広島弁


こんなの見つけた。「朝日のあたる家」は好きな曲なんだけど、ジョーン・バエズのCDはもっているんだけど、ちあきなおみが歌っている。「朝日楼」。これ凄いな。


テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」を思い出した。週末はおじいちゃん来るから、ちびさんまた電車を買ってもらうつもりでいる。電車という名の欲望にのみこまれているようなんだが、いいのか、こんなに甘やかして。