夜間中学

昨日、早朝から大雨洪水警報で幼稚園休み。
昼、療育で一緒だったお母さんたちとごはん。7人集まる予定が3人だった。いま年中さんのRくんが来ていて、見違えるように成長していたのが、他人の子ながらわくわくした。メニューに飲めるものがなくて、しょうがなくてウーロン茶飲んでいたので、砂糖入れるとおいしいよ、と教えてやりました。

午後おじいちゃんが来る。ここんとこ、船や飛行機のDVDみたり、ポニョ見たりで、お船がほしいちびさん、おじいちゃんに「ぼくはまだ船をもっていないんだ」などと言っている。牛乳パックでつくってやりました。大型フェリー2隻。

雨があがったので、庭で、ムカデのコロニーの殲滅にかかる。雨が降る度に出現するなあ。


知人がDVD送ってくれた。
森康行監督の「こんばんは」夜間中学のドキュメンタリー。
墨田区の文花中学の夜間学級が舞台。
http://konbanwa.web.infoseek.co.jp/index.html

人生が尊敬されている。不幸が尊敬されている。
昔、チマチョゴリに墨をかけられたというおばあさんの話。(チマチョゴリに墨をかけるのは、一般的に横行していたみたい。金史良の小説にもあった)。言葉がわからないから何をされているのかわからないし、でも代わりの着物をくれるわけでないし、墨で汚れてもそれしかないからそれを着ていると、またいじめられた。
どんな悪い環境でも、ありったけ生きる、それが花のいのちだ、という物語の授業のときに。

昔、2年ほど墨田区に住んだ。そこで私は精神を病んだので、思い出したくない町だけど、あの通りの向こうに、この夜間中学の景色があるのなら、そこにたどりつけなかった自分の不明を恥じよう。

ヴェイユが、ギリシャ悲劇を翻案したこと(ギリシャ悲劇の本質をもっともよく理解するのは女工たちだといって、彼女たちのために、アンティゴネーとエレクトラーの物語を書いたこと)の意味が、ここにあると思った。

昔、横浜寿町の識字学級に行ったときのことを思い出したりした。あの教室では、やってきた生徒たちに先生がお茶を出してくれた。

人間はもっと、苦しんで生きた人はもっと、尊敬したり尊敬されたりすることが、必要だと思います。



「例えば、目の前にある一本の木を題材にする場合、その木と最も遠く隔った土地に立つ同種の木に思いを走らせる」
新川和江「詩が生まれるとき」)

なんでもないようだけれど、それは詩を書かなくても必要な「精神のトレーニング」と思う。そうすれば愚痴も消えないかしら。
私、もう最近、こらえしょうがなくなって、年寄りの(若くても)愚痴を聞かされるのがほんとにきらい。叫んで逃げ出したくなる。愚痴は傲慢の一種でたましいの地獄と思うわ。

人間は、一生学ぶこと、「最も遠く隔たった土地に立つ同種の木」について学ぶことが必要と思う。地獄のような愚痴を消すためだけにでも。