現場

喧嘩したり和解したり、仲よかったり気まずかったり、なつかしかったりやっぱりつきあいきれんと思ったりする父との関係だが、父からは宝物のような言葉を教えてもらった、とは思う。
「現場」という言葉。

左官の父は、その日その日の仕事場を「現場」と言った。毎朝「現場」に行く、と言って出ていく。現場のほかに仕事はないんだから、まあ、現場がすべてである。その「現場」という言葉がとてもまぶしく思えていた。

昨日、国会議員の街頭演説など聴いていて、といっても駅前で子どもと電車見ていて聴いたのだが、ふと、思いだしたのが、その言葉だった。政治の話を面白いと思わないが、もしかしたら政治の話も「現場」の話なら面白いのか、とすこし新鮮だった。
傍にいた犬を抱いたお姉さんの、犬と遊びながら、最後まで聴いてしまった。療育でよく会うダウン症の女の子もいた。彼女はお掃除の仕事しています。

基本的な判断として、「現場」の話を気もちよく聞かせられる人は、仕事している人である、と思う。きれいごとは、そのうち聴くのがうっとうしくなる。
私は、父と話すのは、彼はすぐにえらそうに知ったかぶりしたがるので、うんざりするのだが、父の仕事の現場の話だけは、うんざりしない、どれだけ話を聞いてもいやにならない、すがすがしいのだ。



ところで、なんで政権交代なのか、いまだに全然わかんないんだけど、テレビ見ていなかったからか、よほど私は頭わるいか。
政治もマスコミも、とてもうさんくさく見えるけれど、でもそれはそういうものだと、あきらめてしまってはいけないのではないか。と、ヴェイユの「根をもつこと」を読んでいて思った。


「集団活動が実際に正義を目指すことがいかに困難であるか、不幸な人間たちが実際に擁護されることがいかに困難であるか」

「人間本来の傾向は不幸な人間たちに注意を向けないところにある」


という透徹した現実認識にもかかわらず、それゆえに、ヴェイユはあきらめていない。そのことに感動する、というか圧倒される。
政治が、詩とおなじように美しいものであり得ること。偽りの善でなく実在の善と結びつくこと。信じられないことを、本気で信じているし、確信している。
確信の根拠はすこぶるシンプルだ。


「なぜなら、民衆のみが、おそらくは、いっさいの認識のなかでもっとも重要なものであるべき、不幸の現実に対する認識を独占しているからである。またこれゆえに、その不幸から匿まわれるに値するものがいかに貴重であるか、各人はいかにそれらを大切に保護してやる義務を負っているかを、彼ら民衆はより痛切に感じ取っているのである」
                 ヴェイユ 「根をもつこと」


詩と政治がつまらないのは、インテリのシニシズムのせいかもしれん。



「現場」がすべてだと思う。

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