人の気持ちがわからない、ということ

アスペルガーの特質にあるらしいのだが、目に見えないものの把握が苦手。想像力に欠ける。
気持ち、というのは目に見えない。自分の気持ちもよくわからんが、他人の気持ちはもっとわからん。よってコミュニケーション障害を起こしやすい。ので生きづらい。ということらしい。


たとえば、「ご飯いらない。適当に外で食う」と言われたら、
相手がその言葉をどんな気持ちで言っているかに、気づかなければいけないらしい。ということに私は最近気づいたんだけど、
私がご飯の支度をしてないことに怒って、そう言ってるのか、
私がご飯の支度をしなくてもいいように気づかって言ってくれているのか。
前者なら、ご飯の支度にとりかかったほうがいいし、間に合わなければごめんなさいを言わなければならないが、後者なら、ありがとうでいい。全然対応の仕方は変わってくる。

ところが、「ご飯いらない。適当に外で食う」といわれたら、
あっそう、としか思わないのが、アスペルガーです。たぶん。
私はそうです。込めた怒りもわからないし、込めた思いやりもわからない。
ぜんぶのご飯がいらないという人はいないだろうとは思うけど、「朝ご飯はいらない」などと言ったら、この人は朝ごはんを食べない人なんだと思うから、明日からもずっと、朝ごはんはないわ。

「ご飯いらない」と言うときに、怒りがあるのなら、怒ってそう言っているのだと言わなければならないし、思いやりなら、それでいいけれど、明日も明後日もずっとその状態がつづいたら困るのであれば、今日はいらないけど、明日はいる、とか、伝えていかないと、わからないのだよ。

ということが、わかりあえていると、人間関係はかなり楽。いまはかなり楽。言葉の裏にあるものが、怒りか思いやりかと、考えなくていいもんね。(だいたい考えて正しく判断できるということはない。)
パパが「ご飯いらない」と言ったら「いらない」だけ。ちびさんがそう言ったら、すねてるだけ。それ以外の感情があるときは、私にもわかる表現してくれるので助かる。パパだと、ついに笑ってしまうほど、ものすごい悪態をつくとか。ちびさんだと「ぼくほんとうは、あっちのをたべたいんだ」とか、うるさくて面倒くさいが、わかりやすくて助かるよ。

他人の気持ちもわからないが、自分の気持ちにも気づかないので、つらいとか悲しいとかにもかなり鈍感なので(私はとても忍耐強い)、その状態が相当期間つづいても、身体症状が出てくるまで、異常な状態に気づかなかったりする。
これはどうかすると生命にかかわるので、楽しいとか、快適であるとか、いう状態に敏感になるように努力しています。楽しい、という状態でなければ、何かおかしいのだと気づきやすくなるように。



すこし気になったことがあって、昔聞き書きした被爆体験を、すこし読み返してみたら、それはむろん、あの地獄がなんであったかという証言なのだから、怖ろしいものだけれど、こんなつらい話を自分は聞いたのかと震えたけど、涙も出たけど、どうして、たかだか20歳ぐらいのときに、こんな恐ろしいつらい話を、10人以上もの人から聞いて、もっと聞かせてもっと聞かせて、と何度も聞きにいって、平気でいられたのか。
話すほうも、いたって恐ろしい話をいたってたんたんとしてくれた気がするけど、私のほうも、いま原稿読み返して泣くけど、そのときは話を聞いて泣いた記憶もない。
ただ、ほんとのところは何にもわからない人間に対して、話をするというのは、どんなに心の傷つく行為をさせていることだろう、という罪の意識のようなものは、ずっと感じていて、だからひたすら、忠実なテープレコーダーのようなものになろうと思っていた。

たぶん、ひとの気持ちがわからないから聞けたかもしれない。テープレコーダーの私は、言葉だけ聞いて言葉だけ書き起こした。地理や年齢とかの辻褄があうかは考えたけど、着ている服が燃えるのがどうであるとか、体に蛆が湧くのがどうであるとか、家族の死とか、健康の不安とか、孤独とか恐怖とか、具体的に身体的に想像した記憶はない。

もしかしたら、ひとの気持ちがわからないから、想像力に欠けるから、できることもあったかもしれない。

「あなたみたいな人の気持ちのわからない人間は、人間じゃない」と昔、すごく憎まれて言われたことがあるけどもさ。