ある犯罪

その犯罪に、私の名前をつけてもよいと思った。

しばらく前に見かけたニュースだ。関東の地方都市で、29歳のホームレスの女性が、路上で子どもを出産し、未呼吸のまま死んだ子を遺棄して逮捕された。好きな人の子じゃないから捨てた、と言う。

犯罪なのである。名前も実名報道されている。
でも、犯罪だろうか。遺棄したから犯罪なのか。死んだ子を抱いていれば、犯罪ではなかったのか。

おそれつづけた光景が、現実にある、という気持ち。自分がいつそのようにならないとも限らず、どうすれば、そのようにならずにすむのか見当もつかず、そうでなかったのは、多少の運のよさにすぎず、その犯罪者と、私を隔てるものはなにもない。

奪われているのは権利である。最低限の安全な暮らしをする権利。子どもを適切な環境で産む権利。彼女は自分でその権利を守れなかったのだが、それは彼女の罪か?

私が路上で暮らさずにすんだのは、家賃が払えないときも追い出さずにいてくれた大家さんのお陰だし、路上で子どもを生まずにすんだのは、たまたま結婚したあとに妊娠したからで、そうでなければ、お金もないのに、こわくて役所だの病院だの、行けなかったと思う。役所や病院が自分を守ってくれるだろう、などとは、きっと夢にも思わないし、役所に行くバス代は、一日の食費に相当するだろう。

「義務の観念は、権利の観念に優先する」というヴェイユの指摘はまったく正しい。義務は、ひとりでも果たすことができるが、権利は、たとえ私に何かの権利があると言ったって、他者がその権利を認めて、与えてくれるのでなければ、私には権利はない。

ストリートチルドレンの問題に携わっていたNGOのメンバーが言っていたことだ。「路上で盗みや売春をしながら暮らしている子どもたちに、君たちには、子どもとしての権利があると言ったところで、それはなんて虚しいことだろう。ぼくたちが、彼らのために、何ができるかを、具体的に考えなければいけないんだ」

一般に人間は、成長するにつれて身につけてゆく社会性によって、自分の権利を守ってゆくが、できない人たちもいるのだ。発達障害などは、一見ふつうに見えても、基本的にコミュニケーション障害、社会性の障害をもっているのだし、そうでなくても、何らかの事情で、社会や他者とのまっとうなつながりをもてなくなる可能性は、きっと誰にでもある。(ホームレスの6割がうつ病などの精神疾患をもっているというニュースも見かけた)

権利が現実に守られるかどうかは、つきつめれば利他心の問題ではないだろうか。社会から利他の心が薄れてゆけば、権利を奪われる人たちは、どんどん増えてゆくだろう。政治のせいにしてすむ話ではないと思う。

利他心もないのに、自分の権利のみを貪欲に主張するようになると、モンスターになる。

きっと私が、ゴミの山のスラムで感じた深い安心感は、ここは、弱いものを疎外しないコミュニティーだ、という安心感だったのだと思う。

翻って、この国が安心でなくなっているのは、弱いものたちを(あるいは、いろんな事情で弱くなったものたちを)、つまり不幸を、ありのままに受け入れる強さを、失っているからではないか。

こんな事件に、実名報道なんてやめてほしい、と思った。それが私の名前であっても、ほんとうに不思議じゃない犯罪。