続・瀬戸大橋を渡る

日曜は、晴れ。
瀬戸大橋を渡って帰る。

その前に、午前中、栗林公園に遊びに行った。
入口で、車椅子を借りる。そりゃ広い庭園を歩くより車椅子が楽、
と思ったら、おばさんが乗るのではないのである。
車椅子に荷物を乗せて、もたれて歩くのが、楽なのらしい。

おばさん、車椅子を押して歩く。
ちびがいつのまにか、荷物と一緒にすわっている。
あってはいけない光景のような気がする。

公園のなかで、無料コンサートをしていた。
お姉さんが、黒いオルフェイパネマの娘を歌っていた。木陰で、風に吹かれてしばらく聞いた。
ちびさん、池の鯉と遊ぶ。

おばさん、いつのまにか杖にもどっていて、荷物とちびさんの乗った車椅子はパパが押している。
広い庭園をふらふら歩いているうちに、車椅子のふたりと、杖のふたりが、はぐれてしまった。
探し回るなんてしんどいことはできないので、入口で待っていればいいよ、と思って入口近くにいたのだが、いつになっても出てこない。
入口と出口は別だったんだね。パパと子どもは、出口付近に何度も探しに行ったらしい。

無事合流できて、帰路につく。
晴れの日の瀬戸大橋は、海が青くて美しい。空も水色。橋も水色。

昼ごはんは、島のサービスエリア、にしとけばよかったのに、島の裏側に、フィッシャーマンズワーフ、という施設があって、そこに行こうとパパが言う。なんでも十数年前に行ったときに、料理がとってもまずかったらしいのだ。それで、もしまだ店が潰れていなければ、それは経営改善されているだろう、というのだったが。

フイッシャーマンズワーフの2階のレストランは、おすすめしない。行かないほうがいい。行ってはいけない。すばらしいのは眺めだけ。

私たちの舌はいいかげんだから、かなり粗悪なものでも受け付ける。食ってしまう。ところが、うちの父もそうなのだが、田舎の年寄りは貧乏でも妙に舌がこえていて、まずいものは食えんのである。
新鮮でない魚だとか、からっと揚がっていない天ぷらだとか。炊きたてでないごはんとか。
おばさん、ほとんど食べられない。

「こんなものにお金使わなくていい」と代金はおばさんが払ってくれて、あまりの申し訳なさに、涙出そうだった。朝食のバター付きパンも、おばさんのぶんは、うちのちびが食っているのである。
おばさん、口なおしに、芋かりんと、食べている。かりかりぱくぱく。

「いい思い出になったわよ。いまどき、こんな店が、あるのねえ」
いやほんと。
何年か前、音戸のロッジの喫茶店で、ピザトーストをたのんだら、色の変わったタバスコがついてきて、あの寂びれ具合もすごかったが(まもなく潰れたが)似たような空気感だった。
物売る店なのに、従業員がつまらなそうで活気がない。客が来て喜ばない、なんていうのはもう終わってる。なんというか役所の窓口に行ったら、職員が奥からしぶしぶ出てくるという感じで、注文を取りにくる。
あやしいなあ、と思ったあのときに、店を出ておけばよかったのだが。

喜びのないところには、近寄らないことである。それはきっと、もうすぐ沈んでゆく船なのだ。

サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフに行ったことがあるパパは、その名前を使う以上は、こんなふうであっていいはずはないと思うらしいのだが、昔の絶望を、再び確認して、納得したらしかった。

翌日、おばさんが「連れていってくれてほんとうにありがとう」と電話をくれる。「昨日のお昼は、へんなところに連れていって、ほんとうにごめんなさい」と言うと、「いい思い出になったわよ」と笑う。笑いながら涙が出てくる。きっと、おばさんとは死ぬまでこの話して、笑うわ。「だけど、ほんと、まずかったね」

ながめだけは、ほんとうにすばらしいので、経営改善して、料理がとてもよくなっているとか、繁盛しているみたいだとか、そういう情報が出てきたら、ぜひ教えてください。それまでは行かない。

帰って、ちびさんに、どこへ行ってきたの、ときいたら、「瀬戸大橋、ホテル、栗林公園」と答える。ほかには?「高松駅」ほかには?「?」
おばあちゃんのお墓に行ったんだよ。それが目的だったんだよ。
しょうがないか。生まれる前に死んでいるおばあちゃんのこととか、わかんないよね。