汝、故郷に帰れず

1年に1度くらい、故郷に帰り、まだ生きている父の顔だけ見て、山にのぼったり、海を見たり、図書館に行ったりして2日ほど過ごし、また立ち去る、ということをしている間は気づかなかった。ひとり暮らしをしている間は、というべきか。故郷はないということ。

故郷で生きていけると思えなかったので、そのほかのどんな土地にいたいわけでもなかったけれど、故郷で暮らすことは思いつかなかった。
というよりたぶん、ここを出ていかなければ生きていけないと思いつめていた17歳や18歳のころの気分を、かたくなにひきずっていたのだ。

数年前、何十年ぶりに故郷で生きている昔の同級生と再会して、そうか、ここで生きるということも、そういうこともできたのかと、ものすごく不思議だった。
ここで生きられない、と思いつめた私はなんだったか。

帰れないのではなく、帰らないのだ、と思っていたが、ほんとうは違う。帰れないのだ。
たとえばお盆にだけ帰るだなんて、まるで幽霊だが、幽霊のようにしか帰ってゆけない。

きっと帰る帰らないではないのだ。故郷がない。

トマス・ウルフというアメリカの作家を知らないが、長田弘『読むことは旅をすること』という本の、「汝、故郷に帰れず」という章は、たまたまそういうことを考えていたせいで、心臓に刺さった。



「物語作者としてのウルフが倦まず語りつづけたのは、激しいホームシックをもつ人びとの国としてのアメリカだ。人は自分の生まれ育った土地に帰属している。にもかかわらず、とウルフは言った。人は故郷をでて、みずからすすんでこの世界をさまようのだ。
 やがて年月が水のように流れて、いつか人はふたたび故郷へ帰る。そしてそこに帰りついて、はじめて、自分には故郷はないということを思い知るのだ。「きみは故郷に帰れると思っているのか?」ああ神よ、われわれは故郷に二度と帰れぬと知らないのだ。
 二十世紀はおそらく、故郷に住めなくなった人間たちの時代として記憶されるようになるだろう。われわれのしてきたこと。「より大きく知ろうとして、汝の知っている大地を失うこと。より大きな人生を求めて、汝のもてる人生を失うこと。より大きな愛を求めて、汝の愛する友を失うこと」」



ヴェイユの「根こぎ」という言葉もまた、二十世紀を象徴する言葉だろう。