複雑な気持ち

昨日の午後、道で若い女の人とすれ違って、このあたりで見かけない人だなあ、と思いながら挨拶したんだが、夕方その人がやってきた。「さっき、お子さんと一緒でしたよね」というような話からはじまったが、英語教室の紹介だった。教室でどんなことをするのか知ってもらうために、出張レッスンをしているのだという。
いやいやそんなものはけっこう、と思ったが、面倒なことに、話がわかっているのかいないのか「英語のレッスンしてみる?」と声をかけられたちびが「うん、ぼくやる」とその気になった。出張レッスン代は1000円。レッスンのほかに、教室と教材の説明はさせてほしいが、しつこい勧誘はしない、という。
断るのも面倒で、1000円ならいいか、と承諾した。

で、今日の夕方、出張レッスンがやってきた。昨日のお姉さんではなくて、若いお兄さんだった。パパもいたので、つきあってもらう。ちびさん、お兄さんが教室の説明をしている間、部屋のなかをごそごそ這いまわる。何をするのか、どれだけ待てばいいのか見通しがたたないので、どうにも落ち着かないのだ。
英語を習うか習わないか以前に、教室というものにどう対応できるかが、問題である。幼稚園で教室に大人しくいられるようになるのに半年かかったこととか、音楽教室でも、エレクトーンを弾くのは好きだからするけど、みんなと歌ったりはできないことなど、言う。小学校も慣れるまでは大変なんじゃないかと心配しているのに、この時期にさらに新しいことをはじめるのは負担が大きくないだろうか。
すると、いえ、6歳という今の年齢が大事なんです、いつもいつも生徒の募集をしているわけではなくて、教室の開講時期は決まっていて、この時期をはずすと、またしばらくは募集しないので、ぜひこの機会に、などと言う。
金がないと言えば、ほかの教室よりは、ずっと安いのです、と資料を見せてくれたり、子どもが興味をもてるかどうか、と言えば、レッスンにも教材にもこんなに工夫がしてあります、と熱心に話してくれたりしてたのでしたが、うちの子は発達障害があるので、もし教室に通うのなら、こういう個別の出張レッスンではなくて、教室でのレッスンを体験させてもらって考えたいのですが、というと、いきなり表情がかわった。

正直なところ、そのようなお子さんへの対応はできていないのです。何かあったときに責任がとれませんから。

ではレッスンをしましょうか。と今度はちびさんに呼びかける。絵を見たり、音を聞いたりしながらの、簡単なゲーム。ちびさんものすごく楽しそうで、ほぼ理想的なレッスン態度だったのではないだろうか。
私たちにはドッグ(犬)と聞こえた音を、「あひる」と答えたのには驚いた。たしかに、ドッグではなくダックだったのである。

向こうがひくと、押してみたくなる。アスペルガー症候群ですが、知的な遅れはありません。むしろ文字への関心は強くて、ひらがなもカタカナもアルファベットも2歳でおぼえました。自分が関心をもてないと、なかなか積極的に参加できないという面もありますが、そういうときでも他人のじゃまはしません。いろんな子どもがいるという個性の範囲だと思います。親が教室に入れないにしても、外で待っていれば、もしも何かあれば対応できます。指導する側のわずかの配慮があれば特に問題はないと思います。普通の小学校の通常学級に就学する予定ですし。

というようなことを言ってみるが、レッスンへの積極性を、すばらしいですね、とほめてくれたにも関わらず、たぶんそれは、企業の方針としてそうなのだろう、発達障害のお子さんは、何かあったときに責任がとれないので、という言葉を繰り返す。

お兄さん、気持ちはもう帰り仕度。一応仕事なので、教材の説明だけは、と口だけ動かしている感じ。こちらも右から左へ。ではまた、機会がありましたら、と一時間半の予定を一時間で引き上げてゆかれました。

うーん。無敵のアスペルガーだな。
出張レッスンって、家に上がりこむからには、どんなに粘って勧誘されるかとゆううつだったけれども。そうか、教材販売や教室の勧誘は、発達障害のひとことで追い払えるのか。すこし爽快。

それから、気づく。追い払われたのは、こちら側である。
「所詮、営利目的の民間企業の姿勢としては、妥当なんじゃないの」というパパの感想だが、発達障害と言う前は、ごそごそと落ち付かない様子を見せても、子どもはそんなものなのだし、ぜひ教室へ、という態度だったのが、発達障害と聞いたあとは、すばらしいレッスン態度を見ても、ほめてはくれるが、教室には受け入れられない、というのが、なんだかなあ。

なるほどなあ。幼稚園選びのとき、うちは問題なく気持ちよく受け入れてもらったが、療育仲間のお母さんたちからは、何かあったときに責任がもてないから、とか、受け入れないとは言わないが、来てほしくない、という態度があからさまだったという話など聞いたけれど、たぶんこんな感じだったんだろうなあ。

発達障害、と聞いたとたんに、ひとりの子どもを、その子自身として見るまなざしではなくなっていくのがわかった。

発達障害のカミングアウトは、してもよいし、しなくてもよい。子どもの利益になるようにすればよいのである。ただし、カミングアウトすれば、敵と味方がはっきりする。と療育センターのドクターは言っていたが、カミングアウトは本来、理解を求めるために必要なのだけれど、実際は偏見を招き寄せることのほうが多いだろうなあ。

なんとなく複雑な気持ちではある。通える英語教室がひとつ減ったことは、ちびさんにとって不利益であり、カミングアウトの仕方をもしかしたら間違えたろうか。でも、アスペルガーだの自閉症だの発達障害だのと聞いて、ひるむ人たちはさっさと去ってしまってください、というのがこちらの本音。関わりたくないのだ。こっちこそ。

ちびさん、もらったぬりえの絵のなかに隠れているアルファベットを探して遊ぶ。もしきみが、本当に英語教室に通いたいなら、どっか探してあげるよ。どっかあるだろう。もしなかったら、フィリピンのローラ(おばあさん。レティ先生のこと)の学校に連れていってあげる。